ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)
中世セルビアの君主 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビア語キリル・アルファベット: Лазар Хребељановић; 1329年ごろ – 1389年6月15日)は、中世セルビア(英語版)の君主(英語版)。セルビア帝国崩壊後のセルビアにおいて、最大かつ最強の勢力を保持した。大モラヴァ川(英語版)、西モラヴァ川(英語版)、南モラヴァ川(英語版)の流域にまたがって築かれた彼の勢力は、後の歴史家によりモラヴァ・セルビア(英語版)と呼ばれている。ラザルはこの地を1373年から1389年に没するまで支配した。セルビア帝国を復活させ、みずからその長となることを目指し、かつて2世紀セルビアを支配した末に1371年に断絶していたネマニッチ朝の直接の後継者を自称していた。セルビア正教会は彼の計画を全面的に支援したが、セルビア貴族たちは彼を最高君主として認めなかった。ツァール・ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビア語: Цар Лазар Хребељановић / Car Lazar Hrebeljanović)と呼ばれることもあるが、彼が生前に実際に保持していた称号は侯 (セルビア語: кнез / knez、クネズ)である。日本語文献ではラザル侯[2][3]と呼ばれることもある。
ラザル | |
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クネズ 全セルビア人のアウトクラトール | |
ラザル・フレベリャノヴィチの肖像(ラヴァニツァ修道院(英語版)、1380年代) | |
在位 | 1373年–1389年 |
全名 |
Лазар Хребељановић ラザル・フレベリャノヴィチ |
出生 |
1329年ごろ プリレパツ城(英語版),[1] セルビア王国 |
死去 |
1389年6月15日 (60歳前後) コソヴォ・ポリェ[1]、ブランコヴィチ家領(英語版) |
配偶者 | ミリツァ(英語版) |
子女 |
マラ(セルビア語版) ドラガナ(英語版) テオドラ(セルビア語版) イェレナ(英語版) オリヴェラ(英語版) ステファン(英語版) ヴク(英語版) |
王朝 | ラザレヴィチ朝(英語版) |
父親 | プリバツ・フレベリャノヴィチ(英語版) |
宗教 | セルビア正教会 |
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ラザル・フレベリャノヴィチは1389年のコソヴォの戦いでキリスト教徒連合軍を率い、ムラト1世率いるオスマン帝国の侵攻に対抗したが、戦死した。この戦いは双方ともに甚大な犠牲者を出し、痛み分けに終わった。その後彼の国家は息子ステファン・ラザレヴィチ(英語版)が継いだが、まだ幼かったため未亡人ミリツァ・フレベリャノヴィチ(英語版)が摂政となり、1390年夏にオスマン帝国の宗主権を認めた。
ラザルはセルビア正教会により殉教者・聖人と認定されている他、セルビアの歴史、文化(英語版)、伝統の上で重要な位置を占めている。セルビア叙事詩(英語版)では、ラザルはツァール・ラザル (セルビア語: Цар Лазар / Car Lazar)と呼ばれている。