帝辛
中国・殷最後の王 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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帝辛[1](ていしん、拼音: Dì Xīn、紀元前1100年ごろ)は、殷の第30代(最後の)王。周の武王に滅ぼされた。一般には紂王[1](ちゅうおう、拼音: Zhòu Wáng、単に紂とも)の名で知られる。
帝乙の末子。異母兄に微子啓と微仲衍らがいる。子に武庚禄父ら。
紂王の紂の字は、戦国時代の竹書である『容成氏』では「受」と書かれており、本来はこちらが正しい可能性がある[2]。
史書では悪評が高い。酒池肉林の名で知られる放蕩や暴政が記されており、『史記集解』には「義を残(そこ)ない、善を損なうを紂と曰う」と記されるなど、後世に暴君の代名詞となった。