野狐嶺の戦い
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野狐嶺の戦い(やこれいのたたかい)は、1211年に野狐嶺(現在の河北省張家口市万全区)で行われたモンゴル帝国と金朝との間の戦闘。この会戦において大敗を喫した金軍主力は壊滅し、以後金軍はモンゴル軍の侵攻に対し敗北を重ねたため、モンゴル-金朝戦争の趨勢を決定づけた一戦であったと位置づけられている。
概要 野狐嶺の戦い, 交戦勢力 ...
野狐嶺の戦い | |
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モンゴル帝国の金朝征服中 | |
戦争:第一次対金戦争 | |
年月日:太祖6年/大安3年(1211年)8月 - 10月 | |
場所:野狐嶺(現在の河北省張家口市万全区) | |
結果:モンゴル帝国の大勝利 | |
交戦勢力 | |
モンゴル帝国 | 金朝 |
指導者・指揮官 | |
チンギス・カン ムカリ オゴデイ ジェベ 耶律禿花 |
完顔承裕 紇石烈執中 紇石烈九斤 † 朮虎高琪 石抹明安(捕虜) |
戦力 | |
総勢10万 | 総勢50万 |
損害 | |
少数 | 30万以上[1] 主力軍の壊滅 |
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両国の主力軍が激突したこの戦いは長期間に渡り、戦場は広範囲に及んだため、戦闘の前半部分を「野狐嶺の戦い」、後半部分を「澮河堡の戦い」(かいかほのたたかい)と呼ぶこともある。なお、「野狐嶺」とは「ウネゲン・ダバー(ünegen daba、「狐峠」の意)」というモンゴル語の直訳で[2]、漢文史料上では扼狐嶺/扼胡嶺/獾児觜と異訳されることもある[注釈 1]。