1794年5月の大西洋方面作戦
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1794年5月の大西洋方面作戦(Atlantic campaign of May 1794)は、イギリス海軍の海峡艦隊による、フランス大西洋艦隊への一連の作戦である。当時フランスは、アメリカから本国への穀物輸送が戦略的に重要であったが、作戦は、この穀物を輸送する護送船団を妨害する目的で行われた。またこの作戦には、派遣戦隊による通商破壊と2つの規模の小さな戦闘が含まれていた。これらの戦闘は、最終的に、英仏全艦隊を挙げての海戦、1794年の「栄光の6月1日」となった。この海戦で両国の艦隊はひどく損害を受け、英仏双方が勝利を主張した。フランス艦隊は7隻の軍艦を失い、イギリス艦隊は艦こそ失わなかったが、戦闘のため、フランス艦隊からかなり引き離され、フランスの護送船団を無事に帰国させてしまった。
1794年5月の大西洋方面作戦 | |
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栄光の6月1日で交戦するイギリス艦ディフェンス | |
戦争:フランス革命戦争 | |
年月日:1794年5月 - 1794年6月1日 | |
場所:大西洋東部 | |
結果:海戦ではイギリスが勝利したが、フランスの護送船団の阻止は不可能だった。 | |
交戦勢力 | |
グレートブリテン王国 | フランス共和国 |
指導者・指揮官 | |
リチャード・ハウ ジョージ・モンタギュ |
ルイ・トマ・ヴィラレー・ド・ジョワユーズ ジョゼフ=マリー・ニーリ ピエール・ヴァンスタベル |
損害 | |
戦死290人、負傷858人 艦の損害11隻[1] |
戦死、負傷、捕囚7000人超 艦の損害12隻[1] |
1794年の春、フランス第一共和政は近隣諸国との戦争に突入しており、国民議会の支配下にあった。飢饉が国内に迫っており、公安委員会は、アメリカのフランス植民地からの穀物の輸入を当てにした。このアメリカからの穀物輸入船団は、この年の4月から6月に大西洋を渡る際、小規模の護送戦隊と、それを支援する二番手の、規模のより大きなビスケー湾の戦隊とに同行されていた。しかしながら革命のため、フランス海軍の戦力は、海軍が一貫して戦う能力を大いに失われ、物資の不足は軍の士気を壊滅させた、中でも艦隊の弱体化は大きかった。対照的にイギリスは、指揮系統が整然としており、戦争の準備への意識が高かったが、大規模な海軍に見合うだけの、訓練された乗員が不足しており、そこが弱点だった。ヴィラレー・ド・ジョワイユーズ(英語版)提督指揮下のフランス大西洋艦隊は、アメリカからの護送船団が無事に帰国できるように、イギリス海峡艦隊の行く手をふさいで時間稼ぎをしていた。リチャード・ハウの指揮下にある海峡艦隊は、護送船団の海峡通過のことを知っており、両国の艦隊は、1週間以上の時間をかけて互いに策略をめぐらせていた。ヴィラレーはハウを、大西洋の西の方向に引きずり込んで、自国の護送船団から引き離した。5月28日と29日に行われた戦闘は、この作戦の一部ではあったが雌雄決せず、その後ハウが風上の有利な位置をヴィラレーから奪い、これによって次の攻撃の時間と位置とを意のままにできるようになった。
この作戦での最終的な戦闘は、その場から400海里離れた大西洋上で行われた。この戦闘が栄光の6月1日である。この最終決戦は、フランスが伝統的な戦列戦法で戦おうと目論む一方で、風上を取ったハウはヴィラレーに直接攻撃を仕掛けてきた。この戦闘でイギリス艦隊は、終日激闘のあげくフランスを完敗させた。ヴィラレーは退却せざるを得なくなり、ハウの方は7隻のフランス艦を拿捕した。そのうち1隻は後に沈没した。またフランスに7000人もの死傷者を出した。しかしヴィラレーは、自らの遅延戦術により、船団が無事にフランスに戻るだけの時間を稼げたため、戦術面では自分たちが成功したと主張した。この海戦は、フランス海軍にとって、フランス革命戦争初期では初めての連敗であり、これによって士官たちは、イギリスとの交戦する際に、腰が引けてやる気が見えない姿勢が植えつけられてしまい、その後21年間の両国の戦いでは、フランス海軍はイギリス海軍にさしたる戦果を挙げられなかった。