ペーローズ1世
サーサーン朝の君主 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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ペーローズ1世(パフラヴィー語: 𐭯𐭩𐭫𐭥𐭰, ペルシア語: پیروز, ラテン文字転写: Pērōz)は、サーサーン朝の君主(シャーハーン・シャー)である(在位:459年 - 484年)。
ペーローズ1世 𐭯𐭩𐭫𐭥𐭰 | |
---|---|
シャーハーン・シャー(諸王の王) | |
在位 | 459年 - 484年 |
出生 |
不明 |
死去 |
484年 バルフ近郊 |
子女 |
カワード1世 ジャーマースプ サムビケ ペーローズドゥフト |
王朝 | サーサーン朝 |
父親 | ヤズデギルド2世 |
母親 | デーナグ |
宗教 | ゾロアスター教 |
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ペーローズ1世は父親のヤズデギルド2世の死後に王位を宣言した兄弟のホルミズド3世と後継者の地位を争い、二年に及んだ内戦の末にホルミズド3世を倒して王位を獲得した。治世の初期には大規模な飢饉に見舞われた一方で、コーカサス地方の従属勢力であるアルバニア王国が内戦中に起こしていた反乱を協定を結ぶことで収拾した。さらに、466年にはシャープール2世の治世以来東方で勢力を争っていたキダーラ朝をエフタルと協力して放逐することに成功し、一時的にトハーリスターンの支配を回復した。
しかし、その後ペーローズ1世はエフタルと対立し、二度にわたって戦争を起こしたものの、二度とも敗れて捕虜となり、解放と引き換えに身代金の支払いを余儀なくされた。482年にはコーカサス地方のアルメニアとイベリア(英語版)においてそれぞれヴァハン・マミコニアン(英語版)とヴァフタング1世に率いられた反乱が起こった。最終的にペーローズ1世は反乱を鎮圧できないままエフタルに対する三度目の戦争に敗れ、484年に戦死した。
ペーローズ1世によるエフタルとの戦いは当時と現代の双方の歴史家から無謀と評され、その敗北と死はサーサーン朝に政治的、社会的、そして宗教的な混乱期を招いた。帝国は衰運を極め、エフタルに対しては貢納金の支払いを余儀なくされた。さらに帝国の貴族と聖職者が政治を牛耳り、国家に対し大きな影響力と権力を振るうようになった。しかし、サーサーン朝はペーローズ1世の息子であるカワード1世の下で改革を推進し、エフタルからホラーサーンの支配を取り戻すと、最終的に孫のホスロー1世の治世において突厥との協力によってエフタルを滅ぼすことに成功した。
ペーローズ1世はインドのシンド地方で自身の名の金貨を鋳造した最後のシャーハーン・シャーであり、同時期にこの地方の支配がサーサーン朝から失われたことを示している。また、ペーローズ1世は他のサーサーン朝の支配者たちと同様にゾロアスター教を信奉していたが、キリスト教に関しては当時の新しい宗派であるネストリウス派を支持し、ネストリウス派は死の直前の時期にジュンディーシャープールで開かれた教会会議においてペルシア教会の公式の教義として採用された。