アラブ・ハザール戦争
遊牧民国家のハザールと、正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝及びその従属勢力との間で行われた一連の戦争 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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アラブ・ハザール戦争(アラブ・ハザールせんそう、英: Arab–Khazar wars)は、遊牧民国家のハザールと、正統カリフ、ウマイヤ朝、アッバース朝及びその従属勢力との間で行われた一連の戦争である[注 1]。歴史家は通常この戦争を642年から652年頃にかけて起こった第一次アラブ・ハザール戦争と、722年頃から737年にかけて起こった第二次アラブ・ハザール戦争の二つの期間に分けて区別している[2][3]。しかし、これらの期間以外にも7世紀の中頃から8世紀の終わりにかけて散発的な襲撃や単発での軍事衝突がたびたび起きていた。
アラブ・ハザール戦争 | |||||||
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第二次アラブ・ハザール戦争終結後のコーカサスの勢力図(740年頃) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
正統カリフ(661年まで) ウマイヤ朝(661年 - 750年) アッバース朝(750年以降) | ハザール | ||||||
指揮官 | |||||||
アラブとハザールの戦争は、主としてウマイヤ朝のカリフが南コーカサスと既にハザールが勢力を築いていた北コーカサスの支配を確保しようと試みた結果として発生した。640年代から650年代の初めにかけて行われた最初のアラブ軍による侵攻は、アブドゥッラフマーン・ブン・ラビーア(英語版)の率いるアラブ軍がハザールの都市のバランジャル(英語版)において敗北を喫したことで終わりを迎えた。その後、710年代に双方の勢力が互いにコーカサス山脈を越えて襲撃する形で戦争が再開された。ウマイヤ朝の著名な将軍であるジャッラーフ・アル=ハカミー(英語版)とマスラマ・ブン・アブドゥルマリク(英語版)に率いられたアラブ軍は、デルベントとハザールの南方の首都であるバランジャルを占領することに成功したものの、これらの成功は南コーカサスの深部への襲撃を繰り返していた遊牧民のハザールにはほとんど影響を与えなかった。このような状況の中、730年にハザール軍がアルダビールの戦い(英語版)でウマイヤ朝軍に大勝を収め、ジャッラーフを戦死させたものの、翌年には敗北して北へ押し戻された。マスラマはデルベントを取り戻し、この都市をアラブ軍の重要な前線基地かつ軍事植民地としたが、732年にカリフのヒシャームによって更迭され、マルワーン・ブン・ムハンマド(後のウマイヤ朝のカリフのマルワーン2世)が後任となった。その後は比較的局地的な武力衝突が続いたものの、737年にマルワーンがヴォルガ川沿いのハザールの首都であるイティルに達する大規模な遠征を敢行し、ハザールのカガン(ユーラシアの北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ)に対し何らかの形による服属を認めさせた後に撤退した。
737年のマルワーンの遠征は二つの勢力間における大規模な戦争に終止符を打ち、アラブ人は南コーカサスの支配を確保してデルベントを最北のイスラーム勢力の前線基地として確立させた。しかしながら、打ち続いた戦争は同時にウマイヤ朝の軍事力を弱体化させ、数年後に始まるウマイヤ朝の内戦とアッバース革命による王朝の最終的な崩壊に影響を与えることになった。コーカサスにおけるその後のイスラーム勢力とハザールの関係は、ハザールのカガンと現地のアラブ人の統治者、もしくはコーカサスの地方政権の王族との間の婚姻政策を通じた同盟関係の確保に失敗した結果、760年代と799年の二回にわたってハザールの侵攻を招いたことを除き、大部分の期間において平穏な状態が続いた。ハザールとコーカサスのイスラーム系諸勢力に挟まれた地域では、10世紀後半にハザールが崩壊するまで時折紛争が発生したものの、8世紀に起きたような大規模な戦争が繰り返されることはなかった。