ウルム戦役
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ウルム戦役(ウルムせんえき、英語: Ulm Campaign)は、第三次対仏大同盟中の1805年にフランス帝国とバイエルン軍が軍事的な機動によってオーストリア軍を捕らえた戦役である。この戦役はシュヴァーベンの都市ウルム近郊で生じた。フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト率いる大陸軍は210,000人から成る7個軍を保有しており、ロシア軍の増援が来る前にドナウ川のオーストリア軍を撃滅することを狙っていた。10月20日、ナポレオンは迅速な行軍によりマック将軍率いる23,000人のオーストリア軍をウルムで降伏させることに成功し、この戦役を通して60,000人のオーストリア軍を捕虜とした。一般的にこの戦役は戦略上最も偉大な勝利であると考えられており、19世紀末のシュリーフェン・プランに大きな影響を与えた[4]。
概要 ウルム戦役, 時 ...
ウルム戦役 | |||||||
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第三次対仏大同盟中 | |||||||
チャールズ・テヴナンによる「ウルムの降伏」 マック将軍と23,000名の兵士がナポレオンに降伏した。 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
フランス帝国 | 神聖ローマ帝国 | ||||||
指揮官 | |||||||
ナポレオン1世 ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット ミシェル・ネイ オーギュスト・マルモン ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト ジャン・ランヌ ルイ=ニコラ・ダヴー ジョアシャン・ミュラ |
カール・マック・フォン・ライベリヒ(英語版) (捕虜) カール・フィリップ・フォン・シュヴァルツェンベルク(英語版) フランヨ・イェラチッチ(英語版) ミヒャエル・フォン・キーンマイヤー(英語版) フランツ・フォン・ヴェルネック(英語版) (捕虜) ヨハン・ジギスムント・リーシュ(英語版)(捕虜) | ||||||
戦力 | |||||||
235,000(25,000名のバイエルン兵を含む)[1] | 72,000[2] | ||||||
被害者数 | |||||||
2,000[3] | 60,000[2](大半が降伏) |
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このウルム戦役によって戦いは終わったわけではなく、まだウィーンの近くにはミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア軍が控えていた。ロシア軍はオーストリア軍の生き残りと合流するために北東に撤退した。フランス軍は11月12日にウィーンを占領した。12月2日にアウステルリッツの戦いでフランスは決定的な勝利を得て、オーストリアはこの戦争から離脱した。12月の終わりに、プレスブルクの和約により、第三次対仏大同盟は崩壊し、フランスの覇権は中央ヨーロッパにまで及んだため、翌年、プロイセンとロシアによる第四次対仏大同盟が結成された。