ジョセフ・グリマルディ
イギリスの俳優、コメディアン、ダンサー (1778-1837) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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ジョセフ・グリマルディ(英: Joseph Grimaldi、1778年12月18日 - 1837年5月31日)は、イギリスの俳優、コメディアン、ダンサーであり、摂政時代にイギリスで最も人気があるエンタテナーとなった[1]。1800年代初期、イギリスのパントマイムの一部をなすハーレクイン物の道化(クラウン)の役を発展させ、特にドルーリーレーンの王立劇場や、サドラーズ・ウェルズとコベントガーデンの舞台で演じた。ロンドンの喜劇界で大きな存在になったので、ハーレクイン物の道化は「ジョーイ」と呼ばれるようになった。これはグリマルディのニックネームであり、また顔を白く塗った化粧のデザインでもあった。現在でも道化といえばこの化粧が使われている。「さあ、また来たぞ!」というようなキャッチフレーズを創出し、それが現代のパントマイムでも使われ続けている。
グリマルディはロンドンでエンタテナーの父の息子として生まれ、子供のときに演技を始め、1780年にドルーリーレーンで舞台デビューした。翌年、サドラーズ・ウェルズ劇場で成功した。その最初の主要な役は1781年のパントマイム『浮かれ騒ぎの勝利; あるいはハーレクインの結婚』のリトル・クラウンであり、父と共に始めた。短期間学校に通った後、様々な低予算の演し物に登場し、引っ張りだこの子役になった。1794年の『バレンタインとオルソン』や1796年の『タリスマン、あるいはハーレクインが幸せを作った』では主役を演じ、特に『タリスマン』で世間に広く認知されるようになった。
1790年代の終わり近く、『ロビンソン・クルーソー』のパントマイム版に出演し、パントマイムの重要な演者としての信認を得た。その後も多くの演し物に出演したが、ドルーリーレーンでの経歴が荒れ模様となり、1806年にはこの劇場を離れた。新たにコベントガーデンの舞台で、同年末に『ハーレクイン、あるいはマザー・グース』に出演し、これがおそらく道化として最良の演技になった。コベントガーデンとサドラーズ・ウェルズの舞台で同時に出演して、ロンドンで一流の道化およびエンタテナーとなり、両劇場で多くの成功を収めた。ロンドンでの人気がイングランド中の地方劇場からのお呼びに繋がり、思い通りに出演料を請求できた。
サドラーズ・ウェルズ劇場との付き合いは1820年に終わった。これは主に劇場の管理者との関係が悪化したためだった。長年精力的に道化を演じている間に多くの怪我もしており、その健康も急速に衰え、1823年には引退した。その後の数年間は時折舞台に上がったが、その悪化する体調・機能のために演技は限られたものになった。晩年には、比較的ひっそりと暮らし、気持ちが落ち込み、貧しいアルコール中毒者となった。妻や息子で役者のジョセフ・サミュエルにも先立たれた後、58歳の1837年にイズリントンの自宅で死んだ。