ジョナサン・ベルチャー
ウィキペディア フリーな encyclopedia
ジョナサン・ベルチャー(英: Jonathan Belcher、1681/1682年[1]1月8日 – 1757年8月31日)は、アメリカの植民地時代、マサチューセッツ湾直轄植民地の商人、政治家である。イギリスの植民地であるニューハンプシャー植民地(1729年-1741年)とマサチューセッツ湾直轄植民地(1730年-1741年)の総督を同時に10年間以上務めた。また1747年から1757年の10年間はニュージャージー植民地総督も務めた。
ジョナサン・ベルチャー Jonathan Belcher | |
---|---|
19世紀に描かれたベルチャーの肖像画、ジェイムズ・I・ボーン画 | |
マサチューセッツ湾直轄植民地総督 | |
任期 1730年8月10日 – 1741年9月7日 | |
副知事 | ウィリアム・テイラー スペンサー・フィップス |
前任者 | ウィリアム・テイラー(代行) |
後任者 | ウィリアム・シャーリー |
ニューハンプシャー植民地総督 | |
任期 1730年 – 1741年 | |
副知事 | ジョン・ウェントワース デイビッド・ダンバー |
前任者 | ジョン・ウェントワース(代行) |
後任者 | ベニング・ウェントワース |
ニュージャージー植民地総督 | |
任期 1747年 – 1757年8月31日 | |
副知事 | トマス・パウナル |
前任者 | ジョン・レディング(代行) |
後任者 | ジョン・レディング(代行) |
個人情報 | |
生誕 | 1682年1月8日 マサチューセッツ湾直轄植民地ケンブリッジ |
死没 | 1757年8月31日(1757-08-31)(75歳) ニュージャージー植民地エリザベスタウン |
墓地 | ケンブリッジ |
配偶者 | メアリー・パートリッジ ルイーズ・ティール |
子供 | ジョナサン・ベルチャー・ジュニア アンドリュー・ベルチャー |
専業 | 商人、政治家 |
宗教 | 会衆派教会 |
署名 |
マサチューセッツの裕福な商人の家に生まれ、ハーバード・カレッジで学び、その後に家業と地方政治の世界に入った。1715年、サミュエル・シュートをマサチューセッツ総督に推す推進者となり、植民地の評議員となったが、時間の経過と共にシュートに幻滅するようになり、その後はエリシャ・クック・ジュニアの人民主義派に加わった。1729年、ウィリアム・バーネット総督が急死した後、ベルチャーがニューハンプシャーとマサチューセッツの総督になった。その任期中に政敵と考える者達を過小評価することとなり、両植民地で多くの強力な敵を作った。マサチューセッツとニューハンプシャーの間で長く続いていた境界紛争では、公式には中立を標榜していたものの、実際にはマサチューセッツの利益の側に付いた。後に王室領で政治的な同盟者に違法な伐採を許していたことが発覚した。ウィリアム・シャーリーやサミュエル・ウォルドが率いた反対党が、貿易委員会を説得してベルチャーを失脚させ(マサチューセッツはシャーリーが、ニューハンプシャーはベニング・ウェントワースが後任総督になった)、境界論争はニューハンプシャー有利に解決された。
1747年、ベルチャーはニュージャージーのクエーカー教徒社会に支持されてニュージャージー植民地の総督に指名された。ここではクエーカー教徒と大規模土地所有者との党派闘争を鎮めることに失敗した。またカレッジ・オブ・ニュージャージー、現在のプリンストン大学の設立を推進した。ベルチャーはその総督であった時期の大半を通じて進行性の神経疾患を患い、1757年に死んだ。マサチューセッツ州ベルチャータウンはベルチャーにちなむ命名である。