テオファン・ヴェナール
ウィキペディア フリーな encyclopedia
テオファン・ヴェナール(Théophane もしくは Jean-Théophane Vénard、 (1829-11-21) 1829年11月21日 - (1861-02-02) 1861年2月2日(31歳没))は、パリ外国宣教会の司祭。安南(ベトナム)のトンキン(現在のハノイ)の宣教師として宣教活動を行い、現地当局から死刑宣告を受けて処刑された。後年カトリック教会によって列福および列聖された。
テオファン・ヴェナール(Théophane Vénard) | |
1852年にパリ外国宣教会にて撮影された、 テオファン・ヴェナールのダゲレオタイプ。 | |
聖人, ベトナムにおける殉教者 | |
---|---|
誕生 | サン=ルー=シュル=トゥーエ (Saint-Loup-sur-Thouet)(フランス) |
死去 | (享年31歳) ハノイ(ベトナム) |
国籍 | フランス |
墓所 | パリ外国宣教会の地下聖堂 |
列福 | 1909年5月2日 教皇ピオ10世による |
列聖 | 1988年6月19日、ローマにて
|
列聖者 | ローマ・カトリック教会 |
祝日 | 2月2日 11月24日(ベトナムにおける殉教者らとともに) 2月13日 (仏・ポワティエ教区) |
modifier |
学業を終えた後、神学校に入学し、パリ外国宣教会の宣教司祭になることを決意した。1852年に司祭に叙階され、宣教師として中国に派遣された。7ヶ月以上の長旅の後、中国の玄関口である香港に到着。1年強の間派遣命令を待った後、最終的にトンキン(現在のベトナム北部)の宣教師に派遣されることになった。
ヴェナールは1854年にトンキンに密入国し、ベトナム語を学び、司教に仕えた。当時の状況はキリスト教徒に対して過酷であり、迫害も激しかった。彼は洞窟や隠れ家に避難し、カトリック教徒の村人たちに守られた。彼はパウロ書簡をベトナム語に翻訳し、神学校の校長に任命もされた。1860年、彼は村人に通報されて捕らえられ、翌年斬首刑に処された。
ヴェナールが生涯を通して、特に宣教師時代に書いた多くの手紙は、彼の死後、弟のユゼブによって収集・出版された。それらの手紙はフランスで大きな反響を呼んだ。リジューのテレーズは、彼の著作を読んで「これらは私の考えであり、私の魂は彼に似ている」と述べ、彼を自分に似た聖人とみなし、カトリック信者の内で、彼を19世紀で最も人気のある殉教者の一人とする一助となった。テオファン・ヴェナールの霊性とリジューのテレーズの霊性には、霊的な小ささを求める点でも、宣教のビジョンにおいても、多くの共通点がある。
テオファン・ヴェナールの列福のプロセスは、彼の死後まもなく始まった。1909年に教皇ピオ十世により列福され、1988年にヨハネ・パウロ二世により列聖された。ローマ殉教者列伝では2月2日に、ベトナム殉教者列伝では11月24日に記念されている。