テネシー軍
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テネシー軍(テネシーぐん、英: Army of the Tennessee)は、南北戦争の西部戦線で活動した軍でその名称はテネシー川に基づく。南軍にもテネシー軍(Army of Tennessee)があるが、こちらはテネシー州から名前を取っている。
テネシー軍(Army of the Tennessee) | |
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ビックスバーグ包囲戦 | |
活動期間 | 1861年12月20日–1865年8月1日 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
軍種 | アメリカ陸軍(北軍) |
兵科 | 軍 |
上級部隊 | ケイロー小軍管区(1861年–1862年) 西テネシー小軍管区(1862年) テネシー軍管区(1862年–1863年) ミシシッピ方面軍(1863年–1865年) |
主な戦歴 | 南北戦争 |
指揮 | |
著名な司令官 | ユリシーズ・グラント ウィリアム・シャーマン ジェイムズ・マクファーソン オリバー・O・ハワード ジョン・A・ローガン |
北軍において「テネシー軍」の呼称が初めて使用されたのは1862年3月である。ユリシーズ・グラント少将隷下の西テネシー小軍管区(District of West Tennessee)の部隊を表すもので、より適切には「西テネシー軍(Army of West Tennessee)」と呼ばれるべきものであった[1]。1862年4月、軍は大出血を被ったもののシャイローの戦いを戦い抜いた。続いてテネシー軍はオハイオ軍、ミシシッピ軍と合流し、比較的損害の少なかったコリンスの包囲戦に参戦し、その後テネシーとミシシッピにおける北軍の勢力を維持するために努力した。1862年10月、グラントはそれまでの西テネシー小軍管区からテネシー軍管区(Department of the Tennessee)の司令官に権限が拡大され、彼の指揮下にあるテネシー軍の名称は、その公式な担当区域を一致することとなった[2]。グラントはビックスバーグ方面作戦における決定的な勝利まで、テネシー軍を指揮した。1863年7月以降、ウィリアム・シャーマンを始めとする後任の軍司令官に率いられ、テネシー軍はチャタヌーガ方面作戦からノックスビル解放作戦、メリディアンの戦い、アトランタ方面作戦、海への進軍、カロライナ方面作戦を戦い、戦争終了後に解散した。この記事では、グラントが1861年から1862年まで指揮していた、南東ミズーリ小軍管区(District of Southeast Missouri)およびケイロー小軍管区(District of Cairo)にも触れる。これらはベルモントの戦い、ヘンリー砦の戦い・ドネルソン砦の戦いでグラントが率いていた部隊であり、後のテネシー軍の中核となったためである[3]。
2005年の研究によると、テネシー軍は「戦争のターニングポイントとなった重要な戦闘のほとんど、ドネルソン砦、ビックスバーグ、アトランタ、に参加し、決定的な戦域において決定的な勝利を得た」とされている[4]。1867年、シャーマンはアトランタ方面作戦でのテネシー軍を振り返り、詩的な表現を用いて「追い詰められることもなく、常に勝利とともにあり、素早く行動し、攻撃精神旺盛で、その「鞭の風切り音」の名前にふさわしく、危急に応じて昼夜を問わず、晴れの日も嵐の日も、一方の側面から逆方向に素早く移動した」と評している[5]。