トマス・パウナル
18世紀イギリスの政治家、植民地行政官 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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トマス・パウナル(英: Thomas Pownall、洗礼日1722年9月4日 - 1805年2月25日)は、18世紀イギリスの政治家であり、植民地の役人である。1757年から1760年までマサチューセッツ湾直轄植民地の総督を務め、その後はイギリスの議会議員を務めた。アメリカ独立戦争以前の北アメリカを広く旅し、イギリスの議会が植民地に課税しようとしていることに反対し、独立戦争が起きるまで植民地側の肩を持つ少数派だった。
トマス・パウナル Thomas Pownall | |
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マサチューセッツ植民地総督 | |
任期 1757年8月3日 – 1760年6月3日 | |
前任者 | 総督評議会(代行) |
後任者 | トマス・ハッチンソン(代行) |
ニュージャージー植民地副総督 | |
任期 1755年5月13日 – 1757年9月23日 | |
知事 | ジョナサン・ベルチャー |
前任者 | 空席 |
後任者 | 空席 |
ニュージャージー植民地総督代行 | |
任期 1757年9月22日 – 1757年9月23日 | |
前任者 | ジョン・レディング(評議会議長) |
後任者 | ジョン・レディング(評議会議長) |
庶民院 | |
議員 コーンウォール、トレゴニー選出 | |
任期 1767年 – 1774年 エイブラハム・ヒューム、ジョン・グレイとサービング | |
前任者 | ウィリアム・トレバニオン |
後任者 | ジョージ・レーン・パーカー |
庶民院 | |
議員 サマセット、マインヘッド選出 | |
任期 1774年12月 – 1780年 ジョン・ファウンズ=ラットレルとサービング | |
前任者 | ヘンリー・ファウンズ=ラットレル |
後任者 | フランシス・ファウンズ=ラットレル |
個人情報 | |
生誕 | 洗礼日 1722年9月4日 |
死没 | 1805年2月25日(1805-02-25)(82歳) イングランド、サマセット、バース |
政党 | ホイッグ党 |
宗教 | イングランド国教会 |
署名 |
パウナルは古典的な教育を受け、ロンドンの植民地管理者とのコネがあったので、1753年に初めて北アメリカに旅し、植民地を探検して2年間を過ごした後の1755年にニュージャージー植民地の副総督に指名された。マサチューセッツ植民地総督を長く務めていたウィリアム・シャーリーをイングランドに呼び戻させることに加わった後、1757年に同総督に就任した。その総督任務はフレンチ・インディアン戦争で忙殺されることとなり、戦争遂行のためにマサチューセッツ植民地から民兵隊を立ち上げることに努力した。植民地の管理のために例えば民間人の家をイギリス兵が宿舎とすることなど軍隊が干渉することに反対した。植民地議会との関係は概して良好だった。
1760年にイングランドに戻り、植民地事情に関する関心を持ち続け、『植民地の管理』の数版など植民地の状態に関した本を出版し、広く読まれた。イギリスの議会議員となり、常に植民地の立場に立った発言を続けたが、あまり成功はしなかった。一旦独立戦争が始まると、戦争遂行を支持した。19世紀初期、貿易障壁の減少あるいは撤廃を主唱する者となり、イギリスとアメリカ合衆国の確固とした関係の樹立を提唱した。当時イギリス政府のやり方を批判した匿名の筆者ジュニアスがパウナルだとする著述家がいる。
ジョン・アダムズは、「パウナルは、イギリス王室からこの植民地に派遣された総督の中で、私の意見では最も憲法に忠実で、最も愛国的な総督だった」と記していた[1]。