ビザンツ帝国内乱 (1341年-1347年)
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1341年から1347年にかけて起こったビザンツ帝国内乱(ビザンツていこくないらん)は、ビザンツ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスの死後にその9歳の息子で後継者であったヨハネス5世パレオロゴスの後見人をめぐって起こった内乱である。
ビザンツ帝国内乱 (1341年-1347年) | |||||||||
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オスマン・ビザンツ戦争中 | |||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||
ヨハネス5世パレオロゴス 摂政政府: アンナ・ディ・サヴォイア ヨハネス14世カレカス(英語版) (コンスタンティノープル総主教) アレクシオス・アポカウコス(英語版) 同盟勢力: セルビア王国 (1343年-1347年) ブルガリア帝国 熱心党(英語版) |
ヨハネス6世カンタクゼノス 同盟勢力: セルビア王国 (1342年-1343年) アイドゥン侯国 (1342/3年-1345年) オスマン帝国 (1345年-1347年) サルハン侯国 | ||||||||
指揮官 | |||||||||
アレクシオス・アポカウコス ステファン・ドゥシャン プレリュブ(英語版) イヴァン・アレクサンダル モムチル(英語版) † (1344年-1345年) |
ヨハネス6世カンタクゼノス マヌエル・カンタクゼノス ヨハネス・アンゲロス(英語版) ステファン・ドゥシャン フレリャ(英語版) ウムル・ベイ(英語版) オルハン |
この内乱は皇太后のアンナ・ディ・サヴォイア、コンスタンティノープル総主教のヨハネス14世カレカス(英語版)、そしてメガス・ドゥクス(英語版)(海軍総司令官)のアレクシオス・アポカウコス(英語版)の3人が率いる摂政政府とアンドロニコス3世の重臣であったヨハネス・カンタクゼノスの間で争われた。また、内乱はビザンツ帝国内にすでに存在していた社会階級間の争いとしての性格も有し、農村に基盤を持つ大土地所有貴族がカンタクゼノスを支持する一方で、都市部の中産階級は摂政政府を支持した。
カンタクゼノスはアンドロニコス3世の死後の1341年6月に幼少のヨハネス5世の摂政となった。しかし、カンタクゼノスがコンスタンティノープルを不在にしていた同年9月に皇太后アンナの支持を得たアポカウコスと総主教のカレカスがクーデターを起こし、新しい摂政政府を樹立した。これに対してカンタクゼノスの軍隊と支持者は10月にカンタクゼノスを皇帝であると宣言し、両者の対立は武力衝突へ発展した。
内乱の最初の数年間は摂政政府側の優勢で推移した。トラキアとマケドニアの大部分の都市は摂政政府の支配下に入り、帝国第二の都市であるテッサロニキでは熱心党(英語版)と呼ばれる反貴族派の民衆が蜂起して事実上の自治権を獲得した。一方のカンタクゼノスはセルビア王のステファン・ドゥシャンとアイドゥン侯国のウムル・ベイ(英語版)の支援を得て形勢を逆転させることに成功した。その後、ステファン・ドゥシャンは摂政政府側へ寝返り、1345年にはウムルも支援から撤退したものの、カンタクゼノスはオスマン帝国を統治するオルハンの支援によって優勢を維持した。1345年6月には摂政政府を主導していたアポカウコスが殺害される事件が起き、歳入も減少したために摂政政府は大きな打撃を受けた。カンタクゼノスは1347年2月3日にコンスタンティノープルへ入城し、カンタクゼノスが10年間正帝として統治を続け、その後はカンタクゼノスとヨハネス5世が対等な立場で統治するという合意が成立したことで内乱は終結した。
ビザンツ帝国はアンドロニコス3世の治世に安定を取り戻しつつあったものの、長期に及んだ戦乱と他国の介入によって大きく領土を失い、国土は荒廃した。内乱に介入したステファン・ドゥシャンはアルバニアとマケドニアの大部分を征服し、セルビア帝国を樹立した。一方でブルガリア帝国はエヴロス川以北のトラキアの領土を獲得し、新興のオスマン帝国も同盟関係を通じてビザンツ帝国への影響力を拡大させた。さらに黒死病の到来とその後も続いた度重なる内紛によって帝国の再建は困難となり、1世紀後のオスマン帝国による征服へつながることになった。ビザンツ学者のエヴァ・デ・フリース=ファン・デル・フェルデンは、この内乱を「ビザンツ帝国の「衰退」と「崩壊」を分ける破断点」であったと述べている。