フルダ
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フルダ(ドイツ語: Fulda, ドイツ語発音: [ˈfʊlda][2])は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州カッセル行政管区のフルダ郡に属す市である。フルダ川に面する東ヘッセンの上級中心都市であり、ヘッセン州で9番目に大きな街である。フルダ郡の郡庁所在地であり、ヘッセン州に7つあるゾンダーシュタートゥスシュタット[訳注 1] の1つである。フルダは東ヘッセン地域で最大の都市であり、その政治的・文化的中心となっている。この街は、ドイツに11箇所ある欧州大都市圏の1つであるライン=マイン地方に含まれる。
紋章 | 地図 (郡の位置) |
---|---|
基本情報 | |
連邦州: | ヘッセン州 |
行政管区: | カッセル行政管区 |
郡: | フルダ郡 |
緯度経度: | 北緯50度33分21秒 東経09度40分53秒 |
標高: | 海抜 261 m |
面積: | 104.05 km2 |
人口: |
68,462人(2021年12月31日現在) [1] |
人口密度: | 658 人/km2 |
郵便番号: | 36037, 36039, 36041, 36043 |
市外局番: | 0661 |
ナンバープレート: | FD |
自治体コード: |
06 6 31 009 |
行政庁舎の住所: | Schlossstraße 1 36037 Fulda |
ウェブサイト: | www.fulda.de |
首長: | ハイコ・ヴィンゲンフェルト (Heiko Wingenfeld) |
郡内の位置 | |
地図 | |
フルダは、かつてはフルダ修道院(ドイツ語版、英語版)の所在地であった。現在はフルダ司教区(ドイツ語版、英語版)の司教座都市で、大学都市、バロック都市でもある。この街の象徴的建造物は聖ザルヴァートール聖堂(ドイツ語版、英語版)である。
位置
フルダ市はヘッセン州の、ドイツの中心近くに位置している。バイエルン州との州境は南南東 15 km、テューリンゲン州との州境は東 25 km にある。この街は、フルダ川上流域、北のフルダ=ハーナウ台地と東のレーン山地(ドイツ語版、英語版)および西のフォーゲルスベルク山地に囲まれたフルダ盆地に位置する。街の中心部の高度は 261.5 m[3] である。フルダは、ライン=マイン地域東部に含まれる。
最寄りの大都市は、いずれも100 km 以上離れている: 南東のフランクフルト・アム・マイン (104 km)、南東のヴュルツブルク (110 km)、北東のエアフルト (168 km)、北のカッセル (106 km) である。
隣接する市町村
フルダは、東から東南にかけてペータースベルク、キュンツェル、アイヒェンツェルと境を接しており、この3町村とともに人口約106,000人の一体化した都市圏を形成している。この他にグローセンリューダー、ヒューンフェルト、ノイホーフ、シュリッツとも境を接する。
市の構成
フルダには中核市区の他に以下の24の市区が含まれる。
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人口: 2017年12月31日現在[4]
フルダ中核市区はさらに11の統計管区に分割されるが、これらは固有の市区を形成していない。
管区 | 人口(人) |
---|---|
アッシェンベルク | 8,561 |
フラウエンベルク | 2,829 |
フルダ=ガレリー | 2,275 |
ホラス | 1,579 |
イネンシュタット(内市街) | 7,504 |
ノルトエント | 4,687 |
オストエント | 4,594 |
ジュートエント | 5,105 |
ヴェストエント | 4,212 |
ツィーアース・ノルト | 2,110 |
ツィーアース・ジュート | 3,778 |
人口: 2017年12月31日現在[4]
市町村合併
フルダ市は、ヘッセン州の地域再編に伴い1972年8月1日に現在市区となっている上述の24周辺町村を合併し拡大したが、1974年7月1日に郡独立市の地位を失った[5]。このため、他の人口5万人以上のヘッセン州の都市6市とともにゾンダーシュタートゥスシュタットとなった。これは、他の郡所属市よりも多くの責務と権利を有するが、郡独立市のそれよりも小さい状態にあることを意味している。
市域の発展
1970年代にアッシェンベルクに新しい市区が形成された。ここには住宅街区と高層住宅が建設されている、現在、都市の発展は内市街の西端で起こっている。この他に西部に新たなフルダ=ガレリー市区が建設された。2005年には新しい文化・会議センター「エスペラント」が完成した。ここには新しい水泳プールが設けられ、古いセントラルプールは閉鎖された。この他の内市街での大きな建設プロジェクトとして、青果市場の新設、大学広場の改造、旧琺瑯工場や閉鎖されたミルク工場などの内市街工業地区の改築および新築が挙げられる。
気候
フルダは、中央ヨーロッパに位置するその立地により、寒冷な気候域にあたる。冬は1月の平均気温 0.6 ℃と寒く、夏は7月の平均気温が 17.7 ℃と涼しい。しかし夏には 30 ℃を超える暑さになることもある。1963年1月17日、フルダで、ヘッセン州の人が住む町中で確認された最低気温記録の -27.5 ℃を観測した[6]。
フルダの気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 3 (37) |
4 (39) |
7 (45) |
13 (55) |
17 (63) |
20 (68) |
22 (72) |
22 (72) |
17 (63) |
13 (55) |
8 (46) |
5 (41) |
12.6 (54.7) |
平均最低気温 °C (°F) | −3 (27) |
−2 (28) |
1 (34) |
3 (37) |
9 (48) |
12 (54) |
13 (55) |
13 (55) |
9 (48) |
4 (39) |
0 (32) |
−1 (30) |
4.8 (40.6) |
降水量 mm (inch) | 46.3 (1.823) |
40.3 (1.587) |
48.5 (1.909) |
52.3 (2.059) |
60.5 (2.382) |
72.8 (2.866) |
64.7 (2.547) |
67.5 (2.657) |
46.1 (1.815) |
48.0 (1.89) |
54.8 (2.157) |
62.9 (2.476) |
664.7 (26.168) |
平均日照時間 | 1.24 | 2.15 | 3.30 | 4.76 | 6.11 | 6.14 | 6.35 | 5.89 | 4.32 | 3.03 | 1.39 | 0.92 | 3.8 |
出典1:気温 - MSN Weather[7] | |||||||||||||
出典2:降水量および日照時間 - Deutscher Wetterdienst |
地名の由来
フルダの名前の由来は明らかでない。記録に遺る表記は以下のものがある: 750年頃 Uulta および Uulthaha、751年 Fulda、752年 Uuldaha、769年以前 Fulde、16世紀 Fuld, Fult および Fuldt。
最も可能性の高い説が川の名前「フルダ」(die Fulda)に由来するという説で、die Fulda は、古ザクセン語 folda に対応する古高ドイツ語 *fulta(推定形)と古高ドイツ語 aha からなるというものである。前者は現在のドイツ語 Feld、英語の fieldと同系の語で「野原、地面、土地、土壌」を意味する。後者はゲルマン語の *ahwô(推定形)に由来し、ラテン語 aqua と同根で、「水」を表す[8]。両者をつなぐと、「野川」ほどの意味か。古高ドイツ語の ahaが 中高ドイツ語でachとなり、ドイツ語圏の河川名・地名、例えばWolfach、Salzach等の接尾辞となっている[9]。
インド・ゲルマン語に *pel- / pol- を由来とする語が多い事実を踏まえると、フルダがインド・ゲルマン語の polta に由来するという可能性も考えられる。中央ヨーロッパ東部にも、フルダと一定の関連性があると思われる地名が見られる: ラトビアでは palts、palte は「水たまり」を意味しており、河川にも Pelta や Peltew という名のものがある。
都市形成以前のフルダと修道院
フルダでは、変化に富んだ地質学的変遷の後、石器時代の痕跡が見つかっている。最初の入植は紀元前5000年頃であることが判っている[10]。民族移動によりこの地域に新たな入植地が形成され文化的に発展した。ケルト人の集落がミルゼブルクに形成された。ローマ帝国解体後、フランク王国が中央ヨーロッパの覇権を拡大していった。フランク王クローヴィス1世は洗礼を受けることでローマの支援を確保し、広範囲にわたるキリスト教化が始まった。教皇の要請を受けたボニファティウスは、この地域のゲルマン民族に対する布教を行い、ローマ=カトリック教会の管理下に組み込んだ。
この集落の発展は修道院の創設によって始まった。744年3月12日、フランク王国アウストラシア宮宰カールマンの支援の下、ボニファティウスの周到な準備の末にフルダ修道院は設立された。彼は弟子のストルムとその仲間が聖ベネディクトの会則に則り禁欲的生活を送ることを求めた。751年彼は修道院のために教皇ザカリアスから、修道院の司教権からの免属(Exemtion)とローマ教会への直属を認められている。754年にこの修道院に埋葬されたボニファティウスはこの修道院の中心的守護聖人となった[11]。「マインツ司教(Lullus)に抵抗したフルダの修道院長ストルムは763年の夏ピピンによって罷免され、マルクスなる者が修道院長に任命されたが、フルダの修道士らは新任者に抵抗し、その職務遂行を不可能にしたため、遂にはストルムが再びその地位を回復した」[12]。ストルムの罷免中、765年修道院は国王修道院となった。774年 カール大帝により修道士による修道院長の自由選挙権とイムニテート(公吏不入権)を授与されている。両権は後続の王・皇帝によっても承認された。以後王侯による寄進が続いた[11]。「カロリング時代・・・フルダ修道院の所領はこの時代アルプスから北海までに散在し、1万5000マンスス――1マンススは30エーカー――以上もあった」[13]。修道士の数も781年の364人から825年/826年の600人以上と増加し、修道院本院と分院に分かれた。その結果全体の 運営が困難になり、一方で王権からの要求も増加した。この修道院はマインツ大司教座との関係が深く、7人の大司教がフルダ修道院の出身である。
791年から819年にラトガー=バシリカ(修道院長ラトガーにちなんで名付けられた)が建設された。これは、当時ではアルプスの北側で最大の教会建築であった。同じ頃、農民や職人が修道院の周辺に住み始めた。
フルダ修道院でも他の修道院と同じく主にラテン語の宗教文書の書写が行われたが、この修道院では、ドイツ語史・ ドイツ文学史上重要な『 ヒルデブラントの歌 』、『タツィアン』(’Tatian’)等の作品も記されている[14]。また、熱と癌に対する『(バーゼルの)処方箋』(’(Basler)Rezepte’ )と称する文書も当地に由来するものと思われる[15]。
「フルダ修道院の付属学校は院長アイギルス(在位818/19-822)およびラバヌス=マウルス(ラバヌス・マウルス・マグネンティウス)のもとでフランク王国第一級の地位にあり、特にラバヌスはキリスト教諸文献に通暁してその師アルクインを凌ぎ、「ゲルマニアの教師」という尊称をもって呼ばれた。フルダに学んだヴァイセンブルク修道院のオトフリッドは初めて聖書をドイツ語で注解したが、これは恐らくラバヌスの影響であったろう」[16]。
フルダ修道院は古典テクストの継承においても重要な役割を果たした。タキトゥス『小作品集』(Opera minora)とスエトニウス『文法学者について』(De grammaticis)はフルダで保存された写本のおかげで現在まで残っている。また、「小プリニウス、アウルス・ゲリウス、エウトロピウス、ノニウス・マルケルスらのテクストの歴史を研究するうえで重要な写本を提供した」。そして、タキトゥス『年代記』(Annales)第1-6巻もここで書かれている[17]。
修道院長、市民、農民(11世紀から16世紀)
フランクフルトとエアフルト/ ライプツィヒを結ぶ街道沿いという地理上の好位置、修道院の王権との深い関係、 ボニファティウスの墓所への巡礼という3条件が、修道院の側に発生した集落に大きな影響を与えた。北部は、荘園的構造を維持したが、南部には手工業の集落が形成された。ハインリヒ2世 はこの集落に対して1019年修道院に造幣権と市場開設権を与え、関税と市場収益は王権から修道院長の手に移った。もっとも、王権は修道院域と市場集落の間の拠点は維持したようである。市場集落の中心は「聖十字架の下」(≫Unterm Hl. Kreuz≪)市場と聖ブラージウス(St. Blasius)教会であった。1114年には「フルダ市」(≫Fulda civitas≪)と刻印された貨幣が鋳造され、他の場所にも市場が開設された。修道院長マルクヴァルト1世(Markward I.; 1150-65)は12本の塔、5つの門(ヘール門、ペータース門、フローレン門、コールホイザー門、フラウエン小門)を擁する市壁と濠を整備した。中心部にはユダヤ人が居住した(1237年と1349年には迫害)。13世紀には市庁舎も建設され、郊外には旅籠が立ち並び、救貧院も置かれた。市の経済は主に毛織物の生産と取引で発展し、行政はシュルトハイス(Schultheiß)と参審団(Schöffenkolleg)がリードした。市の指導層は取引や婚姻の関係でフランクフルトとゲルンハウゼン(Gelnhausen)の都市貴族と密接に結びついていた[18]。
フルダ修道院長はかねてからヒルデスハイム司教と確執があったが、1063年 ゴスラーでのハインリヒ4世臨席の 聖霊降臨祭のミサの最中には、教会の中で両者の配下の者たちが武器を振りかざして渡り合うという不祥事が引き起こされている[19]。
修道院長マルクヴァルト1世(在位: 1150年 - 1165年)の下、本市は発展を遂げ、多くの失われていた所領を回復した。そのために、中世の最も有名な文書偽造家の1人であるフルダの修道士エーバーハルトが修道院長に手を貸した。修道院長マルクヴァルトは、盗賊騎士を追い出して城砦を獲得した。1162年に、市壁、12本の塔、5つの門(ヘール門、ペータース門、フローレン門、コールホイザー門、フラウエン小門)を持つ防衛施設をこの街に設けた。
修道院領は 1220年に、フリードリヒ2世の「聖界諸侯との協約」(≫Confoederatio cum principibus ecclesiasticis≪)により「帝国諸侯身分」(Reichsfürstentum)を獲得したが、修道院長の王権への奉仕(Reichsdienst)や近隣貴族・騎士(Ritterschaft und Herren benachbarter Territorien)との確執のために衰退に向かっていった[20]。
領主・修道院長のハインリヒ・フォン・ヴァイルナウは1294年から1312年に修道院城砦を建設し、修道院外にあるその城に住んだ。この城砦は17世紀に、領主・修道院長ヨハン・フリードリヒ・フォン・シュヴァルバッハによってルネサンス様式の城館に改築された。
市民の蜂起
領主・修道院長のハインリヒ5世・フォン・ヴァイルナウ(Heinrich V. von Weilnau; 1288-1313)は1294年から1312年に修道院城砦を建設し、修道院外にあるその城に住んだ。この城砦は17世紀に、領主・修道院長ヨハン・フリードリヒ・フォン・シュヴァルバッハによってルネサンス様式の城館に改築された。
フルダ市は、修道院の近くに城砦を有していた修道院長の干渉からその権利を護らなければならなかった。領主・修道院長ハインリヒ6世フォン・ホーエンベルク(Heinrich VI. von Hohenberg; 1315-53)が1319年から1320年に第2の城砦を市内に建設した。市民は1331年修道院代官ツィーゲンハイン伯(Graf von Ziegenhain, Schirmvogt des Klosters)ヨハン1世の協力を得て修道院の2つの城砦を占領し、新しい城を塔や環状壁を含めて破壊した。逃走した修道院長の訴えにより皇帝は市と伯に帝国アハト刑を宣告した[21]。市のためにトリーア大司教バルドゥインが調停を仲介したが、市民たちは新しい城の塔と環状壁を修復し、かなりの額の補償金を支払わなければならなかったので、1332年に再び暴動が起きている。中世末期、市壁内の面積は約 22 ha、市民の人口は約 2000人であった[22]。
フルダ地方における農民戦争
都市市民と周辺地域の農民たちは、高い税と賦役に大変苦しい状況にあった。修道院は農民から搾取し尽くし、豪華な建築物を造営した。このためフルダ地方の農民も都市住民とともに行政機関に対して蜂起し、1525年春にドイツ農民戦争に加わった[23]。
フルダおよびフルダ地方における農民戦争では、1万人の農民を参集させたディッペルツの僧ハンス・ダールホプフが重要である。しかし、ヘッセン方伯フィリップは強力な軍事力で修道院を助け、フラウエンベルクの戦いで反乱軍を鎮圧した。
フルダにおける魔女狩り
魔女狩りの時代、1603年にバルタザール・ヌスがツェントグラーフ(十分の一税区の代官)としてフルダに招聘された。修道院長バルタザール・フォン・デルンバッハはヌスに、通常業務に加えて修道院領全域における魔女裁判を委任した。バルタザール・ヌスは3年間で約300人を魔女および妖術使いとして拷問し、最終的に処刑した[24]。犠牲者の財産は彼のものとなった。この魔女狩りの特によく知られた犠牲者が、1603年のメルガ・ビーン夫人であった。
バロック都市フルダ
三十年戦争では、この街は1640年6月20日にスウェーデン軍の軍勢によって甚大な被害を受けた。
領主で修道院長のプラキドゥス・フォン・ドロステは、その修道院としての在任中にフルダ修道院領の財政を根本的に立て直した。その後継者アーダルベルト・フォン・シュライフラスは1700年にヨハン・ディーンツェンホーファー(ドイツ語版、英語版)をフルダの修道院建築責任者に任命し、ロマネスク様式のラトガー=バシリカの場所に現在のフルダ聖堂とシュタットシュロス(都市城館)をバロック様式で建設することを命じた[25]。
1752年、この領主・修道院長は、司教領主に昇格した[26]。七年戦争でフルダは、1762年にルックナー麾下のハノーファー軍によって占領された。
フランクフルトとフルダとの間の街道は、1764年に司教領主ハインリヒ・フォン・ビプラの指示により、ヘッセンで最初の幹線街道として拡充された。
領主・修道院長アドルフ・フォン・ダルベルクの治世にフルダは大学都市となった[27]。1734年から1805年までカトリックのフルダ大学が存在した[26]。この大学は4つの学部を有していた: 神学部、哲学部、医学部、法学部である。フルダの領主・修道院長宮廷建築家のアンドレアス・ガラシーニによるバロック建築は、1731年から1734年に建設された[28]。現在この建物には、アドルフ=フォン=ダルベルク基礎課程学校が入居している。
19世紀
1802年の世俗化は、司教領にも及んだ。フルダの所有権はヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・オラニエ=ナッサウのものとなったが、1806年にナポレオンがフルダ州としてこれを奪取した。1810年にフランクフルト大公国の一部となった。1815年のウィーン会議によりこの州は廃止され、1年間プロイセンが統治した後、ヘッセン選帝侯国に併合された。1866年の普墺戦争後、フルダとヘッセン選帝侯国はプロイセン王国の一部となった[26]。
1850年11月2日にフルダはプロイセン軍によって占領されたが、11月9日のブロンツェル近郊でのオーストリア軍との戦いの後、短期間ではあったがバイエルンの所有となった。1866年の戦いの結果、この街は再びプロイセンのものとなった[26]。
フルダ市は、文化闘争においては、ドイツ国における教皇権至上主義思想の牙城であった。兵舎(第11野戦砲騎馬部隊)を含めた街の人口は、12,226人であった。フルダは、司教、聖堂参事会、区裁判所、税務署の所在地であった。
フルダからの移住者たちは、アメリカでフルダ疾病者支援協会を設立した。
ヴァイマル共和制と国家社会主義
フルダでは、NSDAPは1933年3月の国会議員選挙で 1/4 の票を獲得することができず、市議会においても副次的な役割に甘んじていた。強制的同一化に伴い、1933年にフルダー・アクティエン印刷所が破壊され、1938年11月9日のユダヤ人排斥運動(水晶の夜)では歴史的なユダヤ人墓地や旧ユーデンガッセ(ユダヤ人通り)のシナゴーグが破壊された。かつてのフルダ市長カール・エーザーは後に、カッセルのガウの宣伝指導部がフルダにも攻撃を行う可能性を覚悟するように命じてきたと述べている。彼はシナゴーグを解体するよう指示している。1940年にフラウエンベルク修道院からフランシスコ会修道士が追放された。
第二次世界大戦では、フルダは何度も攻撃目標とされた。最初に大きな被害が出たのは1944年7月20日で、聖堂が損傷を受け。80人の死者が出た。同年8月30日の攻撃は30発の焼夷弾による小規模なものであった[29]。1944年9月11日と12日、および1944年12月27日の空爆で街の 1/3 が破壊され、多くの犠牲者が出た。フルダでの戦争死亡者は合計1,595人に及んだ。さらに大勢の負傷者や行方不明者がいた。交通や工業は甚大な損傷を負った。旧市街、特にゲミューゼ市場周辺やバロック市街の歴史的建造物も大きく毀損された。
戦後から現代
第二次世界大戦後、フルダはアメリカ管理地区に属し、その後ヘッセン州の一部となったが、そこはドイツの中心ではなく、地理的にも経済的にもドイツ連邦共和国の辺縁部であった。ドイツ民主共和国とのドイツ内国境(ドイツ語版、英語版)は、街の中心からわずか約 35 km の距離にあった。このため、フルダは1989年まで東の背後地を欠いたままであった。テューリンゲンとの間の古くからの交通や経済関係が遮断されたためであった。ドイツ分裂時代、フルダはいわゆるゾーン辺縁部に含まれていた。
冷戦時代フルダは、フルダ・ギャップ(ドイツ語版、英語版)という概念から明らかなように、戦略上特に重要であった。この NATO によって創出された概念は、ワルシャワ条約機構軍が攻撃を行う際、フルダ川の谷を通って、約100 km 離れたフランクフルト・アム・マインを経由して南西ドイツに侵攻しようとするという戦略モデルである。このシナリオでは、第三次世界大戦が起こった際には、おそらくフルダが最初の戦場になると想定された。このためフルダには、ダウンス・バラックに第14装甲機動部隊を含む大きな兵舎が設けられた。1974年からこの兵舎には第11装甲機動部隊(ブラックホース連隊)が駐屯した。フルダにおけるアメリカ軍駐留は 1994年に終了した。旧兵舎の敷地には様々な役所や企業が定着し、ジッケル市区の飛行場と一体化した土地は新たな市区フルダ=ガレリーとなり、メッセ会場が設けられた。
フルダは、1945年以降ドイツ連邦共和国の辺縁に位置していたにもかかわらず、近代的な工業都市に発展した。1972年のヘッセン州の地域再編に伴い、8月1日に市周辺の24町村が州法によって合併した[30]。これらは現在、中核市区以外の24市区を形成している。この街は1974年に、1927年から保持してきた郡独立市の地位を失ったが、1980年からゾンダーシュタトゥスの機能を与えられ、これにより郡レベルの様々な責務を負っている[26]。
1980年11月17日から18日に教皇ヨハネ・パウロ2世は、内市街に参集して聖堂広場での野外の礼拝に参加した10万人以上の信者[31] を熱狂させた。
1984年9月29日、大規模な平和デモがフルダで開催された。約3万人の平和運動参加者は東西の軍事政策に反対を表明した。1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツ国境が開放されると、1日に何千人もの DDR住民がこのバロック都市を訪れた。
1990年に第30回「ヘッセンの日」がフルダで開催された。この街は1994年に創設1250周年を祝い、第1回「ヘッセン州庭園博」の開催地となった。2002年には「フルダ司教区250周年」を祝った[26]。
2004年が聖ボニファティウスの没後1250年と考えられた。これを記念して、フルダの城館劇場で「ボニファティウス - ダス・ミュージカル」が世界初演された[26]。
フルダの1275周年祭
2019年は、4つのアニバーサリーが重なる都市である。744年3月12日にシュトゥルミウス(ドイツ語版、英語版)が7人の協力者とともにフルダ修道院を創建し、東ヘッセン全域に人が定住する1275年の礎となった。1200年前に建設されたラトガー=バシリカと819年11月1日にマインツ大司教ハイストゥルフによるラトガー=バシリカの聖別、1100年前に行われたフルダ聖堂でのドイツ王コンラート1世の葬儀、1000年前の1019年7月1日の皇帝ハインリヒ2世による市場開催権と貨幣鋳造権授与はフルダの歴史のマイルストーンとなったできごとで、2019年に祝典が行われた[26][32]。市の記念祭の間、聖堂前の巨大なステージを舞台装置にした「ボニファティウス - ダス・ミュージカル」の7つの新演出が上演された。夏の地中海のような雰囲気の中、35,000人がこの作品および関連イベントに訪れた。
カトリックが根強いフルダは、第二帝政期やヴァイマル共和政時代から伝統的に中央党が最も有力な政党であった。戦後この街はヘッセン州における CDU の牙城となった。戦後最も有名なフルダの政治家は、14年間フルダ市上級市長を務め、フルダ選挙区選出の連邦議会議員を26年間務めたアルフレート・ドレッガー(ドイツ語版、英語版)(一時的に CDU/CSU 連合議長を務めた)である。
2016年の市議会選挙以降フルダでは、CDU と CWE (Christliche Wähler-Einheit) は、連携を結んでいる。
市議会
フルダ市の市議会は 59議席で構成されている[33]
上級市長とマギストラート
第二次世界大戦後の上級市長を以下に列記する。
- 1945年 - 1946年 エーリヒ・シュミット(アメリカ占領軍による指名)
- 1946年 - 1956年 クーノ・ラーベ (CDU)
- 1956年 - 1970年 アルフレート・ドレッガー (CDU)
- 1970年 - 1998年 ヴォルフガング・ハムベルガー (CDU)
- 1998年 - 2003年 アロイス・リール (CDU)
- 2003年 - 2015年 ゲルハルト・メラー (CDU)
- 2015年 - ハイコ・ヴィンゲンフェルト (CDU)
マギストラートは基本条例に基づき、上級市長、市長(通常の都市の副市長にあたる)、6年ごとに改選される専門職の都市建築監督官、および11人の名誉職の市議会議員で構成される。
2015年からハイコ・ヴィンゲンフェルト (CDU) がフルダ市の上級市長を務めている。彼は2015年3月15日に得票率 66.6 % で上級市長に選出された。この選挙の投票率は 33.3 % であった[34]。ダグ・ヴェーナーは、2014年5月19日に市議会で 58票中33票を獲得して新しい市長に選出された。ダニエル・シュライナー(無所属)は2014年10月17日に、市議会で54票中40票を獲得して都市建築監督官に選出された。彼は2015年1月1日に就任した。
名誉職の市議会議員は、2019年現在、CDU が5人、SPD、Grünen、CWE、FDP、LINKE、Republikanern が各1名ずつである[35]。
紋章
図柄: 左右二分割。向かって左は銀地で、端まで貫く黒十字。向かって右は赤地に緑の三峰の山。そこから3本の銀の花をつけた緑のユリ。盾の上には5つの凸部を持つ胸壁を戴いている。
十字はフルダ修道院の紋章から採られたもので、本市が修道院によって建設されたことを示している。ユリは、本市の3人の守護者(シンプリチウスとファウスティヌスとベアトリス)を表している。ユリの下の三峰の丘は3つの墓を意味している。それはベアトリスが2人の兵士を埋葬し、そのために殺害されたという伝承による。ボニファティウスはこの聖人の聖遺物をフルダの修道院教会にもたらした。赤い背景は、3人の死が殉教によるものであったことを示している。頂部は市壁を表している。
聖シンプリチウスの教団廃止後、3本のユリが修道院の紋章となり、教団の徴および紋章として、市の紋章に採用された。それ以前フルダは、銀地に写実的な鷹を描き、左上(向かって右上)に2本の枝を払ったブナの幹が描かれた紋章を用いていた。紋章のサポーターには、守護聖人シンプリチウスが武装した姿で描かれていた[36]。
姉妹都市
フルダ市は以下の都市と姉妹都市関係にある[37]:
友好都市
フルダ市は以下の都市と友好都市関係にある[38]:
援助・協力関係
フルダ市は以下と援助・協力関係を締結している[39]:
- 1955年: グウォグベク(ポーランド語版、英語版)(ポーランド、オポーレ県)
- 1961年: リトムニェジツェ(チェコ、ウースチー州)
- 1988年: ボーイング 737-300 D-ABXP「フルダ」
- 1997年: 掃海艇「フルダ」
- 2001年: インターシティ・エクスプレス (ICE)「フルダ」
- 2007年: グライダー ASW 28 D-KANZ(ヨハニスアウ・グライダー飛行場)「シュタット=フルダ」
- 2014年: エアバス A320-214 D-AIZF「フルダ」
- 2018年: 機関車 193 477「フルダ」(SBB カーゴ・インターナショナル)[40]
- ボーイング 737-330 D-ABXP「フルダ」
- 掃海艇「フルダ」
宗教
2017年12月31日現在、本市の住民の 44.6 % がカトリック教会、18.7 % が福音主義教会に属している。36.6 % がその他の宗教の信者(ムスリム、正教徒など)または無宗教である[41]。
キリスト教
ローマ=カトリック教会
フルダは、カトリックのフルダ司教区(ドイツ語版、英語版)の司教座都市として、またドイツ司教会議(ドイツ語版、英語版)の定期的な開催地として、伝統的にカトリックが根付いている。744年の修道院設立は、フルダ市の創建年でもある。修道院とその支配地域が、1752年に司教区にまで発展した。最も有名な司教がヨハネス・ディーバ大司教(ドイツ語版)(1929年 - 2000年)である。彼は、その保守的な姿勢のため、人気であると同時に異論もあった。
宗教改革後、カトリックの礼拝はゼヴェリベルクの教会で行われるだけとなったが、学校、説教、宗教問答を通じてイエズス会によって集中的に行われた対抗宗教改革が再びフルダをカトリックに戻した。
福音主義教会
フルダの福音主義信者は、1896年から内市街に立派な教会、クリストゥス教会を有している。オラニエ=ナッサウ公子ヴィルヘルム・フリードリヒ(1814年からオランダ王ウィレム1世 兼 ルクセンブルク大公)が新たな領主として1802年にフルダに福音主義=改革派教会を創設した。1803年4月3日の棕櫚の日曜日にフルダ大学のコレギウム・マリアヌムで新しく設立された福音主義=改革派教会の初めての礼拝が行われた。この部屋は、1896年7月1日にクリストゥス教会が完成するまで、礼拝に用いられた。第二次世界大戦でクリストゥス教会が破壊されたため、1946年の復活祭から1949年9月25日の再建完了まで、再びコレギウム・マリアヌムで礼拝が行われていた。初めは343人の福音主義信者と1人の牧師から、200年の間にフルダとその周辺には8つの福音主義教会、12人の牧師、約2万人の信者が改革派教会の信仰を奉ずるに至った[42]。フルダは1949年からドイツ福音主義教会協議会(ドイツ語版、英語版)の事務局所在地となっている。創始者ライノルト・フォン・タッデン=トリーグラフ(1891年 - 1976年)の妻フェライイン・エリーザベト・フォン・テューゲン(1893年 - 1988年)はレーン近郊で育った。
ヘッセン=ナッサウ福音主義教会連合に属す福音主義組織(旧地方教会組織)は、1899年からフルダに存在する。同じ建物内に、地元の EC-青年団が入居している。
1948年からクリストゥス教会の青少年のためにキリスト教会が運営するスカウトが活動している。地元のフルダ VCP を母体とするグラーフ・フォルケ・ベルナドッテは会員数100名を超える。
自由教会
フルダには多くの自由教会組織がある。たとえば、バプテスト(福音主義=自由教会組織)、イエスの家教団 (Bund Freikirchlicher Pfingstgemeinden)、自由福音主義教会、Bibelgemeinde Oase、ロシア系ドイツ人を特徴とする2つの大きなキリスト教兄弟団がある。さらに2002年からジーザス・フリークスのグループも形成されている。
ロシア正教会
2006年2月からフルダに、モスクワ総主教区のロシア正教会がある。この教会は「Ehren des Festes Begegnung des Herrn」(直訳: 聖燭祭の栄光に)と名付けられている。礼拝は定期的に行われている[43]。
ユダヤ教
イスラム教
フルダにはイスラム教のモスク教団がいくつかあり、トルコ系、ボスニア=ヘルツェゴビナ系、アラビア系、北アフリカ系、イラン系、パキスタン系出身者にとって非常に重要である。
中でもトルコ=イスラム協会とアーマディヤ・ムスリム・ジャマートが大きな組織であり、フルダの公共のチャンネルでイスラムに関するパブリック・アクセスの放送番組(「イスラムの時間」)を制作している。
2007年6月から西部墓地の敷地内にムスリム墓地が設けられた[44]。
メディア
フルダでは1874年1月1日から地元のパルツェラー出版からフルダー・ツァイトゥングが刊行されている。この出版社からは、多くの郷土史関連書籍も出版されている。競合紙であったフルダー・フォルクスツァイトゥングは1974年に刊行を停止せざるを得なかった。1869年1月2日からフルダでは郡の広報誌(クライスブラット)が刊行されており、1885年1月1日からフルダー・クライスブラットとして、1920年4月30日からフルダー・ターゲブラットとして出版されていたが、1922年9月1日に発行停止となった。フルダー・ツァイトゥングに競合する日刊紙はその後出版されていない。
アンツァイゲンツァイトゥング・フルダは、フルダ市、フルダ郡およびフォーゲルスベルク郡とヴァルトベルク郡(ドイツ語版、英語版)の一部に向けて刊行されている。この週刊紙は各戸に116,000部以上が配布される。この週刊紙はディルク・イッペン出版コンツェルンに属している。
フルダのラバヌス通りにヘッセン放送は、東ヘッセン向けに放送を行う地方スタジオを有している。フランクフルター通りのパルツェラー=ハウスに、民放ヒット・ラジオ FFH が地方スタジオを有している。
「オフェナー・カナル・フルダ」はケーブルテレビを介して放送される。この放送はアマチュアが制作している。
フルダには、2001年からインターネット上で地方ニュースポータル「Osthessen-News.de」を運営するメディエンコントール・フルダの本社もある。
映像作品の中のフルダ
歴史的な旧市街および第二次世界大戦後も良好に保持されているバロック街区は、時々有名なドイツの映画やテレビドラマの舞台に使われている。
- 1953年 映画「Königliche Hoheit」ディーター・ボルシェ(ドイツ語版、英語版)、ルート・ロイヴェリク出演、ハラルト・ブラウン(ドイツ語版、英語版)監督
- 2007年 ARDで放送されたテレビドラマ「Alles was recht is」ミヒャエラ・マイ(ドイツ語版、英語版)、フリッツ・カール(ドイツ語版、英語版)、ワディム・グロヴナ(ドイツ語版、英語版)出演
- 2008年 ARDで2009年に放送されたテレビドラマ「Alles was recht ist – Die italienische Variante」ミヒャエラ・マイ、フリッツ・カール、アナ・シュット(ドイツ語版、英語版)出演
この他のフルダで撮影された作品としては、SF映画「Die Hamburger Krankheit」(1979年)、災害映画「見えない雲」(2006年)、およびミステリードラマ「Tatort: Schwindelfrei」(2013年 ウルリヒ・トゥクル出演)がある[45]。
音楽
音楽学校
フルダ市の音楽学校[46] は、1968年に設立された。幼児教育、器楽および声楽教育、アンサンブル演奏や音楽理論教育の他に専門導入教育コースもある。この学校には1,300人の生徒と約40人の教員がいる。音楽学校の建物は Clemens Wenzeslaus Coudray により1810年に建設された古典主義建築で、1985年に文化財保護の視点の下、音楽学校の必要に応じて改修がなされた。
合唱とオーケストラ
- 福音主義カントライ。少なくとも年に1回、宗教合唱作品の大規模なオラトリオなど(たとえば、J.S.バッハの受難曲や「ロ短調ミサ」、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」、メンデルスゾーンの「エリヤ」や「聖パウロ」など)を上演している。
- コンサート合唱団「ヴィンフリディア」フルダ。1876年から存在しており、年に2回、大規模な宗教合唱作品あるいは世俗合唱作品(たとえば、J.S.バッハのロ短調ミサ、ヨハネ受難曲、マタイ受難曲、ベートーヴェンの交響曲第9番、モーツァルト、ブラームス、ヴェルディのレクイエム作品など)を上演している。
- コレギウム・ムジクム・フルダ e.V.
- フルダ聖堂合唱団
- ユーゲントカテドラルコール・フルダ(旧 少女カントライおよび聖堂児童合唱団)
- 聖シンプリチウス聖堂区合唱団
- フルダ聖堂区青少年合唱団
- フルダ聖ボニファティウス少年合唱団
- マリアヌム・フルダ児童合唱団
- 青年室内管弦楽団 e.V.
- フルダ交響楽団、1999年創設
- 福音主義ゲザムトゲマインデ・フルダ・トロンボーン・アンサンブル、1946年創設
- フライヘル=フォン=シュタイン=シューレ・フルダのブラスオーケストラ、1952年創設
- フルダ=ニージヒ音楽協会
- シンフォニック・ブラスオーケストラ・フルダ、2009年創設
- フルダー・シュタットムジカンテン、1823年から1852年、1988年にクラブとして再結成
- フルダー・トルムブレーザー e.V.
- アコーディオン・オーケストラ・フルダ e.V.、1951年アルノ・ハルトマンによって創設された。
ロック、ジャズ
演劇
- フルダ城館劇場は、シュタットシュロス(都市城館)の付属建造物である。この劇場は690席のキャパシティを持つ。専属の劇団はない。ボニファティウスの1250回目の命日にあたる2004年6月3日に「ボニファティウス - ダス・ミュージカル」が、2011年6月3日には「ディー・ペプスティン - ダス・ミュージカル」が初演された。
映画
- フルダには、芸術性の高い映画を上映するプログラム映画館がいくつかある。たとえば「ヴィンターツァイトキーノ・イム・ムゼウムスカフェ」、「フィルムビューネ・フルダ」、「35キーノ」などである。
- シルデック=センター(レール通りとシルデック通りとの角)のシネスター・フィルムパラスト(ドイツ語版)は、フルダで唯一のメインストリームの映画館である。
博物館・美術館
- ドイツ消防博物館: フルダ=ノイエンベルクのこの博物館は、広さ 1,600 m2 の展示フロアに、ドイツの消防の歴史を展示している。運営はドイツ消防博物館フルダ e.V. である[47]。
- 聖堂博物館: この博物館は大量の典礼上の衣装や文物を収蔵している。銀製の祭壇や18世紀の祭壇の衝立などが含まれる。また、聖ボニファティウスの頭部、聖ボニファティウスを殺害した短刀、その他のフルダ司教区の聖人に関する聖遺物も所蔵している[48]。
- ブロックフレーテ体験ワールド: ブロックフレーテ(リコーダー)製造業者コンラート・モレンハウアー GmbH の体験ワールドは、楽器ブロックフレーテに関する情報を提供している。展示品の中には見学者が試奏できるものもある[49]。
- シュタットシュロスのフェルディナント=ブラウン=コレクション: シュタットシュロス(都市城館)では、ブラウン管の発明者であるフェルディナント・ブラウン(1850年 - 1918年)に関する展示がなされた部屋を見学することができる。
- フルダ大学・州立図書館の展示コレクション: この図書館は、貴重な書物の宝を展示室で入れ替え展示している。稀覯本の中には、グーテンベルク聖書も含まれる[50]。
- シュタットシュロスの歴史的スペース: シュタットシュロスの歴史的スペースの多くは見学することが可能で、オリジナルに近い状態を見ることができる。この他に多くの芸術作品(たとえば、絵画、化粧漆喰、陶磁器など)が展示されている。
- ヨハネスベルガー工芸品コレクション: ヨハネスベルク修道院の敷地にある多くの展示スペースに、工具、工房、創作・修復技術、ツンフトの物品が展示されている。さらに工芸品コレクションにはドイツ最大級の様々な地方の歴史的木組み建築の模型コレクションが見られる。これらの模型は、オーデンヴァルトのヘムスバッハに住む模型作家ディーター・エーレットによって制作されたものである[51]。
- フルダ子供アカデミー - ヴェルクラウム博物館: 子供のためのこの博物館は、子供たちが自分で試すことのできる物品が展示されている。展示の中心は「通り抜けられる心臓」である[52]。
- フォンデラウ博物館: この博物館は郷土研究家のヨーゼフ・フォンデラウにちなんで名付けられた。ここには先史時代の出土品が数多く展示されており、フルダ周辺地域のケルト人集落の文物も展示されている。プラネタリウムもこの博物館の一部である。
- フルダ大学・州立図書館
- フルダ子供アカデミー
- フォンデラウ博物館
建築
教会
- フルダには紀元後1000年以前からプレ=ロマネスク様式のミヒャエルス教会がある。この教会はドイツで最も古い教会の1つである(818年 - 822年建造)。かつてのラトガー=バシリカと同じようにこの教会はおそらく墓所教会としても利用されていた。ミヒャエルス教会の内部は、 フレスコの絵画で装飾されている。
- 聖アンドレアス教会: 新らたに修復されたオットー朝時代のクリプタは、保存状態の良い芸術作品で、アルプスの北側で最も古い壁絵の1つである。聖アンドレアス教会はかつての修道院教会で、1200年にまで遡ることができる。
- フルダ聖ザルヴァトール聖堂: フルダ聖堂(ドイツ語版、英語版)はこの街の象徴的建造物である。聖堂の内部には、ドイツ初の使徒である聖ボニファティウスの墓所がある。この聖堂の設計は、領主・修道院長アーダルベルト・フォン・シュライフラスの依頼に基づき、ドイツで最も重要なバロック建築家の1人であるヨハン・ディーツェンホーファー(ドイツ語版、英語版)によって1700年頃に作成された。先代の、かつてはアルプスの北側で最大のバシリカであったラトガー=バシリカは、新しい聖堂建設のために取り壊された。1704年に、現在のバロック教会の建設が始まった。聖堂は1712年8月15日に完成した。フルダ聖堂はその内部システムをローマのサン・ピエトロ大聖堂に倣っている。
- 首席司祭館: フルダ聖堂のすぐ近くに位置する首席司祭館とその庭園には、現在石碑コレクションが設けられている。また、首席司祭館の一部は聖堂博物館となっている。
- フラウエンベルク修道院(1758年 - 1765年): フラウエンベルクは、聖ボニファティウスのお気に入りの場所で会ったため、ビショフスベルク(直訳: 司教の山)の名を有している。以前から存在していたラトガー修道院長(802年から817年)の木造の礼拝堂は、石造りの教会に建て替えられた。フラウエンベルク修道院は1525年までフルダ修道院のプロボスト管区に属す修道院であった。フラウエンベルクには1623年3月31日から現在までフランシスコ会修道士が定住している。この修道院と教会は1757年にフュルステンバウを除いて焼失した。現在のバロック様式の修道院施設は1758年から1765年に建設されたものである。
- 聖ブラジウス市教区教会: 1771年に司教領主ハインリヒ・フォン・ビプラの下、古い教会が取り壊され、バロック教会の建設が始まった。設計はイエズス会神父アンドレアス・アンダーヨッホによって行われた。献堂は1785年8月17日になされた。
- 聖霊教会(フルダ): 現在のバロック様式の聖霊教会は、13世紀の古いゴシック教会があった場所に、1729年から1733年に領主・修道院長アドルフ・フォン・ダールベルクによって建設された。
- ゼヴェリーク教会(フルダ): この教会は1438年から1445年にゴシック様式で建設された。この建物は1620年から1623年まで、フルダに招かれたフランシスコ会によって最初の修道院教会に転用されていた。1626年からの短期間、ベネディクト会が教会として利用した。
- ベネディクト女子修道会聖マリア修道院: この修道院は1626年にフルダの領主・修道院長ヨハン・ベルンハルト・シェンク・ツー・シュヴァインスベルクによって、フルダ市の中心部に創設されたベネディクト会女子修道院である。1629年から1631年に建設された修道院教会は、後期ゴシック様式とルネサンス様式で造られている。現在もここにはベネディクト女子修道会の修道女たちが生活している。
- ホラスの聖ボニファティウス教会: 1885年にマールブルクのエリーザベト教会をモデルに建設された。チャールズ・クローデルによる1958年および1974年のステンドグラスの窓がある。
- ヨハネスベルク修道院: 811年に最初の記録が遺る。修道院長ラバヌス・マウルス(822年 - 842年)の下、教会が拡張され、ベネディクト会修道院が設立された。そのプロボストに属す修道院に改組された。1500年頃に後期ゴシック様式の新しい建物が建てられたが、1686年から1691年にバロック様式に改築された。
- 聖ミヒャエルス教会
- 聖アンドレアス教会
- 聖霊教会
- ゼヴェーリ教会
- 聖マリア女子修道院
- 聖ボニファティウス教会
城館
- シュタットシュロス(都市城館): フルダの都市城館の初代建築は、14世紀初めに建設された修道院長の城砦であった。この城砦は17世紀初めに城館に改築され、同世紀の第4四半期にルネサンス様式の城館に改築され、拡張がなされた。この建物は、18世紀初めにヨハン・ディーツェンホーファーによってバロック様式に改築された。19世紀初めの選帝侯公子宮殿への改築の際、城館の一部は後期古典主義様式に改築された。
- ファサネリー城(「アドルフゼック」): かつて司教領主の、その後はヘッセン選帝侯の夏の宮殿であったこの城館は、アイヒェンツェル町内に位置している。この城館は1730年から1757年に建設された。フルダの司教領主アマンド・フォン・ブーゼックが造り上げたこの広大なバロック建築は、その権力と派手好みを如実に反映している。建築家は、司教領主に仕えていたイタリア人宮廷建築家アンドレアス・ガラシーニである。城館内にはヨーロッパで比類のない、フルダ磁器を含む磁器コレクションがある。
バロック時代の建物
- オランジュリーとフローラヴァーゼ: オランジュリーは1721年にマクシミリアン・フォン・ヴェルシュ(ドイツ語版、英語版)の設計に基づいて建設された[53]。領主・修道院長はこれをサマーフェストの会場として利用した。冬季にはここにオレンジやレモンなどの観賞用植物を保管した。これがオランジュリーという名称の由来である。
- フルダ大学: アドルフ大学フルダは1734年に領主・修道院長アドルフ・フォン・ダールベルクによって設立され、1805年まで存在していた。71年の間に在籍した学生は約4,100人で、4つの学部があった。すなわち、神学部、哲学部、医学部、法学部である。1731年から1734年に建設されたバロック様式の建物は、アンドレアス・ガラシーニが設計したものである。
- 旧市庁舎(1531年の外観に再建された)
- バロック街区の貴族の館
- パウルス門: 1710年から1711年の建造。使徒パウロのためのこの門が元々あった場所はシュタットシュロスと衛兵本部との間であった。設計は、1710年にヨハン・ディーンツェンホーファーが行った。現在の場所に移されたのは1711年で、これにより聖堂が市と統合されることになった。
その他の建造物
記念碑
- ボニファティウス記念碑 - 1842年から旧城館広場(現在のボニファティウス広場)に建つ聖ボニファティウスの立像。この像は1842年8月17日にヨハン・ヴェルナー・ヘンシェルによって除幕された。
- キュンツェラー通りの旧中央市立墓地に建つ、1870年から1871年(普仏戦争)の戦没者追悼碑は1879年6月22日に除幕された。かつてはフンデスハーゲンアンラーゲにあった。
- フンデスハーゲンアンラーゲの、第47歩兵連隊の1914年から1918年(第一次世界大戦)の戦没者追悼碑
- シュタットシュロス前の記念板
- 市教区教会前のオベリスク
- 1600年から1604年にフルダ司教区内の魔女裁判で火刑になった270人の犠牲者の追悼碑
- 旧ユダヤ人墓地(現在のイェルサレム広場)
- ホラザー・ヴェーク 71番地の工場跡
公園と近郊保養地
- フラウエンベルク
- フェルディナント=ブラウン公園
- 州庭園博会場があったフルダ川河川敷(1994年の第1回ヘッセン州庭園博)
- 散策路や展望塔があるラウシェンベルク
- 土着動物園
- フルダ都市城館に付属した城館庭園(1994年の州庭園博の会場の一部となった)
- アイヒェンツェル近郊のファサネリー城の庭園
- フルダ周辺の遊歩道と自転車道
- フンデスハーゲン公園
年中行事
- フルダは、ヘッセン最大の謝肉祭開催地である。15世紀にまで遡る「フォアゼット」は、フルダー・カルネヴァルスゲゼルシャフトを頂点とする、合計13のカーニバルクラブで構成されている。中核市区を「仕切る」クラブは「ラントシュターテン」と呼ばれる。バラの月曜日(ドイツ語版、英語版)には、このクラブや数多くの地域カーニバルクラブによる伝統に則ったヘッセン最大のパレードがフルダ内市街を練り歩く。
- 夏季(おおむね4月 - 10月)には、2週間ごとにナイト・スケーティング・エクスペリエンスが開催される。これは、警察の保護の下、公道をインラインスケートで走行するイベントである。このプロジェクトは、フルダ市および東ヘッセン警察の支援を受けている[54]。
- 2007年から毎年5月末/6月初めにフルダ内市街約 6 km のコースで、ランおよびノルディックウォーキングを行う「GWV-チャレンジ=レース」が開催される。2013年には7,000人以上が参加したこのイベントは、この地域最大級のレジャースポーツイベントの1つである。
- 年に1度、夏に、おおむね10日間の射撃・市民祭が開催され、約12,000人の訪問客を惹きつける。会場は、マクデブルガー通り(州道 L3419号線)とフルダ川支流のヴァイデス川との間に位置するオクゼンヴィーゼである[55]。ここは普段は大きな駐車場として利用されている。
- 毎年9月初めに「フルダ・マラソン」が開催される[56]。
- フルダのクリスマスマーケットは、歴史的旧市街で11月末から12月23日まで開催される[57]。
- 1972年から2010年まで州外にも知られた秋の地域イベント「オストヘッセンシャウ」が開催されていた。2年ごとに開催されるこのイベントは2010年に最後となった第19回が開催された。会場は、2004年以降はオクゼンヴィーゼではなく、市の西部にあるイベント会場メッセ=ガレリーが使われていた。
名物料理・食材
- 食事: 有名なフルダ料理がツヴィッベルシュプローツ(ツヴィーベルクーヒェン(ドイツ語版、英語版))である。これは、古くからのフルダの家庭で伝統的に金曜日に作られ、最寄りのパン屋(パン焼き窯)で焼いてもらっていたものである。今でもこのフルダの名物料理は、地元に古くからあるパン屋で買うことができる。これにはしばしばジャガイモのスープが合わせて供される。こうした料理はフルダのカトリックの伝統に根ざしたものである。金曜日に肉のない食事を摂るのは、イエスの死を悼むためである。フルダは、パンの種類が豊富なことでも知られている。人気があるのは、たとえば、薪窯で焼かれた表面の堅い田舎風のライ麦を混ぜたパンで、「バウエルンブロート」(直訳: 農民のパン)という名前でパン屋で売られている。フルダ周辺、特にレーン山地地方では現在でも自家屠畜(特に豚や牛)が広く行われている。有名な料理には、フルダー・シュヴァルテンマーゲンやフルールゲンダー(ソーセージの一種)がある。
- ビール: フルダには、大きなブルワリーとして、ライプツィガー通りのホーホシュティフトリッヒェス・ブラウハウス・フルダがある。創業1848年のこのブルワリーの最も有名な製品が軽い風味の「ホーホシュティフト・ピルス」である[58]。この他に、ブラウハウス・ヴィーゼンミューレというこれよりも小さなブルワリーもある。このブルワリーは自然混濁ビールの製造に特化しており、直径 6.92 m、幅 6.50 m、重さ 55 t のヨーロッパ最大の水車を有している[59]。
- ワイン: フルダには、文献や出土品により裏付けられる古くからのワイン造りの伝統がある。744年の修道院創設後、当初はキリスト教儀式で必要なことが、ワイン造りの原動力となったのであろう。12世紀の報告書には、フルダの日当たりの良い石灰岩の土地に様々なブドウ畑があったことが記録されている。これには、フラウエンベルク修道院のブドウ畑も含まれている。