ヘイヴァーヒル奇襲
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ヘイヴァーヒル奇襲(ヘイヴァーヒルきしゅう)は、アン女王戦争中の1708年8月29日に起こった戦闘である。ヌーベルフランス、アルゴンキン族、アベナキ族の兵が、ジャン=バティスト・エルテ・ド・ルーヴィユの指揮下、マサチューセッツ湾直轄植民地のヘイヴァーヒル、そして辺境地帯の小さな集落を襲撃したもので、この奇襲によりヘイヴァーヒルの住民16人が殺され、14人から24人が捕虜にされた。襲撃の後民兵の一団がすばやく彼らを追って、小競り合いとなり、フランスとインディアン連合軍の9人が戦死し、捕虜の何人かが逃走した。
概要 ヘイヴァーヒル奇襲, 時 ...
ヘイヴァーヒル奇襲 | |||||
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アン女王戦争中 | |||||
1719年の地図より。赤がヘイヴァーヒル、青がフランスとインディアン連合軍の経路と合流点。 | |||||
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衝突した勢力 | |||||
イギリス領北アメリカ植民地住民 |
フランス領カナダ住民 アルゴンキン族 モンタニェ族 | ||||
指揮官 | |||||
サイモン・ウェインライト ターナー少佐 サミュエル・エイアー | ジャン=バティスト・エルテ・ド・ルーヴィユ | ||||
戦力 | |||||
民兵70 | インディアン兵と民兵250 | ||||
被害者数 | |||||
戦死16、14人から24人の民兵と住人が捕囚 |
戦死9 負傷18 | ||||
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奇襲隊の元々の標的はヘイヴァーヒルではなかった。ヌーベルフランス当局は、ピスカタクア川に沿った集落に、もっと大規模なインディアン部隊を送り込み、一連の軍事行動を起こす計画を立てていた。しかし、一部のインディアンがマサチューセッツへの遠征に乗り気でなく、ヌーベルフランスは、目標の範囲をせばめ、より狙いやすい地域を選ぶしか方法がなくなった。1708年の時点では、イギリス領植民地がヌーベルフランスからの襲撃を警戒するよう命じられていたため、1704年にやはりマサチューセッツのディアフィールドで行われた奇襲よりも、こちらのほうが経費がかかった。