中都の戦い
1215年のモンゴル軍と金軍の戦い / ウィキペディア フリーな encyclopedia
中都の戦い(ちゅうとのたたかい)は、1214年から1215年にかけて行われたモンゴル帝国による金朝の首都の中都(燕京大興府)の包囲戦。
概要 中都の戦い, 交戦勢力 ...
中都の戦い | |
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モンゴル帝国の金朝征服中 | |
戦争:第一次対金戦争 | |
年月日:太祖9年/貞祐2年3月26日 - 太祖10年/貞祐3年5月2日(1214年5月7日 - 1215年5月31日) | |
場所:中都大興府(現在の北京市) | |
結果:モンゴル帝国の勝利、金朝の南遷 | |
交戦勢力 | |
モンゴル帝国 | 金朝 |
指導者・指揮官 | |
チンギス・カン トルイ ムカリ ケフテイ 石抹明安 |
宣宗 胡沙虎 朮虎高琪 完顔承暉 † 抹撚尽忠 |
戦力 | |
数万 | 6千人以上 |
損害 | |
不詳 | 不詳 |
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当初、モンゴル帝国の指導者チンギス・カンは中都を陥落させるつもりはなかった(金朝を軍事征服する予定はなかった)とする説が有力であり、一度は両国の間に和議が結ばれてモンゴル軍は包囲を解いている。しかし、モンゴル軍を過度に恐れた金朝は開封への遷都を断行し(貞祐の南遷)、これを和約違反であると反発したモンゴル軍によって中都は再度包囲を受け、既に金朝皇帝の去っていた中都は1215年5月に陥落した。