北郷忠相
ウィキペディア フリーな encyclopedia
北郷 忠相(ほんごう ただすけ)は戦国時代の武将。北郷氏8代当主。
概要 凡例北郷忠相, 時代 ...
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 文明19年(1487年) |
死没 | 永禄2年11月16日(1559年12月14日) |
別名 | 左衛門尉(通称) |
諡号 | 仙巌浄永居士 |
戒名 | 竜峰寺仙岩浄永大禅定門 |
墓所 | 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地 |
氏族 | 北郷氏 |
父母 | 父:北郷数久、母:島津季久の娘 |
兄弟 |
新納忠武室、島津忠朝室、 樺山広久室、忠相 |
妻 | 正室:島津忠廉の娘 |
子 | 忠親、娘(伊東祐充室)、忠孝、娘、久厦 |
テンプレートを表示 |
閉じる
大永3年(1523年)までは、伊東氏、北原氏、更には新納氏、本田氏らの四方に敵を抱えて長年戦い続け、伊東尹祐の猛攻に辛うじて都之城と安永城の兵800名で領地を維持している状態だったが、尹祐の急死によって伊東氏と和議を結ぶ。これを転機として、本田親尚や新納忠勝を攻め、次第に領域を拡大していく。
天文元年(1532年)、島津忠朝・北原久兼と密約を交わし、三軍で伊東氏領の三俣院高城を襲撃。伊東軍に壊滅的打撃を与えた(不動寺馬場の戦い)。 伊東氏はこの敗戦に加え、家中に内紛が発生したことで三俣院の維持が困難となり、軍勢を引き上げた。
こうして伊東尹祐に奪われた領域の回復を果たし、勢いに乗じて新納氏の梅北城、松山城、末吉城などの諸城を攻略すると、都城から三俣院高城に本拠を移した。
天文11年(1542年)には伊東・北原連合軍が再び侵攻してきたが、大楽で撃退した(大楽合戦)。この合戦以降、伊東氏は三俣方面から完全に撤退し、北原氏も野々美谷城を失って引き上げた。 この後さらに北原氏から山田城・志和池城を奪取した北郷氏は庄内(現在の都城市)一円を知行する最盛期を迎えることになる。
永禄2年(1559年)、73歳で没。