境界州
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境界州(きょうかいしゅう、border states)は、南北戦争時の1861年4月以前にアメリカ合衆国から脱退しなかった奴隷州(英語版)を指す。4つの奴隷州、デラウェア州、ケンタッキー州、メリーランド州、ミズーリ州は脱退しなかった。また、アーカンソー州、ノースカロライナ州、テネシー州、バージニア州は1861年のサムター要塞の戦いの後まで脱退を宣言しなかった。その後脱退しなかったこれらの州は「境界州」と呼ばれるようになった。境界州の中には戦争中にバージニア州から分離し、ユニオンに加わって新たな州となったウェストバージニア州も含まれる[1][2]。
すべての境界州において、南部同盟の軍事的強制に反する広いコンセンサスがあった。合衆国大統領リンカーンがサムター要塞と他の国家的要衝を取り戻すために南に行進するよう軍に呼びかけると、地方のユニオニストはうろたえ、アーカンソー、ノースカロライナ、テネシー、バージニアの脱退論者はそれらの州の合衆国からの脱退宣言と連合国への加入を達成させることとなった[3]。
ケンタッキーとミズーリでは共に親南部同盟と親ユニオンの政府がそれぞれ存在した。ウェストバージニアは1862年から63年にかけてバージニア州北西部の郡から形成され、バージニア州政府を設立した体制支持者の中でユニオンへの忠誠心を維持した者達が作り上げた。サウスカロライナを除く全ての奴隷州が、連合国と同様にユニオンに対しても白人兵を貢献させたが[4][5]、分裂はこれらの境界州で最も激しく、同じ家族が両軍に分かれて戦うようなこともあった。
正規軍による正式な戦闘の傍ら、境界地域では大規模なゲリラ戦が繰り広げられ、激しい暴力、反目および暗殺の舞台となった[6]。暴力行為はケンタッキー州東部とミズーリ州西部で特に激しかった。代表的な事件として、カンザス州で1863年に発生したローレンスの虐殺がある[7]。
北部と南部の地理的、社会的、政治的、経済的関係の上で、境界州は戦争の結果にきわめて重大であった。そして、北部と南部を文化的に切り離す境界として表される。境界州は合衆国から脱退しなかったため、議会はレコンストラクションの対象に指定しなかった。彼らは自らによる再建と政界再編のプロセスを経験し、その過程は連合国の再建にいくぶん似ていた。1880年以後、ほとんどの境界州は黒人の隔離と彼らを二級市民として扱うというジム・クロウ法を採用したが、その導入は投票によるものであった[8]。
リンカーンによる1863年の奴隷解放宣言は境界州には適用されなかった。ミズーリ、メリーランド、およびウェストバージニアは戦争の間に奴隷制度をすべて廃止した。ケンタッキーとデラウェアでは、約4万人の取り残された奴隷が1865年12月の憲法修正第13条の批准で解放された。