楠木正儀
南北朝時代の武将、公卿。楠木氏棟梁。楠木正成の三男。 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将、公卿。楠木氏棟梁。
概要 凡例楠木 正儀, 時代 ...
時代 | 南北朝時代 |
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生誕 |
不明(推測:元弘3年/正慶2年(1333年)?) 『太平記』流布本:元徳2年(1330年) 『太平記』天正本:元弘元年/元徳3年(1331年) |
死没 | 元中5年/嘉慶2年(1388年)もしくは元中6年/康応元年(1389年)ごろ[1] |
改名 | (虎夜刃丸(とらやしゃまる、幼名)?[2]→)正儀 |
別名 | 通称:楠木判官正儀(『後愚昧記』[3])、伝・次郎左衛門(『太平記』流布本31巻[4]) |
戒名 |
伝・正巌孝儀大居士(『如意輪寺旧記』)[5] 伝・小光寺秀芳義瑞大居士(『河内名所図会』)[5] |
墓所 | 伝・大阪府千早赤阪村(『河内名所図会』)[5] |
官位 |
南朝:左衛門少尉[1]、左馬権頭[6]、河内守[6]、大夫判官(五位検非違使尉)[7]、和泉守護[8]、左馬頭[1]、右兵衛督[9]、左兵衛督[1][10] 北朝:左兵衛督[11]、散位[12]、中務大輔[1] 南朝(帰参後):左兵衛督[13]、参議[1] |
幕府 | 室町幕府河内・和泉・摂津住吉郡守護職 |
主君 | 後村上天皇→長慶天皇→足利義満→長慶天皇→後亀山天皇 |
氏族 | 楠木氏(称・橘氏後裔) |
父母 | 父:楠木正成、母:不明[注釈 1] |
兄弟 | 正行、正時 |
妻 | 正室:不明(伝・伊賀局(篠塚重広の娘)[15]) |
子 | 正勝、正元、正秀、正澄、正平 |
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南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、槍を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にもかかわらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後には南朝に帰参し、議政官である参議に任官している。正儀の南朝への攻撃と復帰は南朝内部の和平派伸長につながり、和平派の後亀山天皇の即位と南北朝和約につながったと評価されている。