第二次世界大戦時のギリシャ
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第二次世界大戦時のギリシャ(だいにじせかいたいせんじのギリシャ)では、第二次世界大戦時に枢軸国によって分割占領され、傀儡政権が建てられたギリシャについて述べる。
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公用語 | ギリシャ語 ドイツ語 イタリア語 | ||||||||||||||||||||
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首都 | アテネ | ||||||||||||||||||||
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通貨 | ドラクマ(₯) | ||||||||||||||||||||
現在 | ギリシャ |
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- ギリシャ国
- Ελληνική Πολιτεία (ギリシャ語)
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← 1941年 - 1944年 → (国旗) (国章) - 国の標語: Ελευθερία ή θάνατος(ギリシア語)
自由か死か - 国歌: Ύμνος εις την Ελευθερίαν(ギリシア語)
自由への賛歌
1942年のギリシャ国
第二次世界大戦中、ギリシャ王国はイタリアの侵攻を受け、続いて始まったドイツ軍の侵攻により、ドイツ、イタリア、ブルガリアによって占領された。占領は1944年10月、ドイツ軍の撤退まで続いたが、クレタ島を始め島嶼地域は1945年5月、もしくは6月までドイツ軍の占領下にあった。
1940年10月、イタリアはギリシャに侵攻したが撃破され、反対にギリシャ軍のアルバニア侵攻を許していた。このため、ドイツ軍はバルカン半島への連合軍の上陸を懸念せざるを得なくなり、ソ連侵攻作戦である「バルバロッサ作戦」の延期を余儀なくされた。1941年4月、ドイツ軍はギリシャ侵攻を開始し、迅速な電撃作戦の前に5月半ばにはギリシャは枢軸国ドイツ、イタリア、ブルガリアの占領下に置かれた。この占領はギリシャ人に恐ろしい負担をもたらし、300,000人以上が飢死し、数千人が報復で殺され、ギリシャ経済は破綻した。そのため、ギリシャではパルチザン活動が発生した。これらのパルチザンはゲリラ活動を開始し、各地のパルチザンはネットワークを形成してスパイ活動を行ったが、1943年後半からはお互いの主義主張の違いから内戦を始めていた。1944年10月にギリシャが解放された時、ギリシャは危機的状況であり、それは内戦の勃発を招くこととなった。