豊臣秀次
戦国時代から安土桃山時代の武将・大名 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名、公卿。官位は正二位、関白、左大臣。2代目武家関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。
概要 凡例豊臣秀次 / 羽柴秀次, 時代 ...
豊臣秀次像/瑞泉寺蔵(部分) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 永禄11年(1568年) |
死没 | 文禄4年7月15日(1595年8月20日) |
改名 | 万丸(よろずまる)[注釈 1](幼名)、治兵衛[注釈 1]→宮部吉継→?→三好信吉→羽柴信吉→羽柴秀次→豊臣秀次 |
別名 |
吉継、信吉 通称:治兵衛[注釈 1]、次兵衛尉[注釈 2]、孫七郎、二兵衛、号:道意 渾名:筑前おヰさま、殺生関白[注釈 3]、豊禅閤[注釈 4] |
戒名 |
瑞泉寺殿高厳一峯道意[注釈 5](瑞泉寺) 善正寺殿高岸道意大居士[注釈 6](光臺院・瑞龍寺・善正寺) |
墓所 |
和歌山県伊都郡高野町の高野山光台院裏山(墓所) 京都市中京区木屋町三条下ルの慈舟山瑞泉寺(首塚) 京都市左京区岡崎東福ノ川町の善正寺[注釈 7](菩提寺) |
官位 | 正二位、関白、左大臣 |
主君 | 豊臣秀吉→後陽成天皇 |
氏族 | 木下氏(長尾、三輪とも)[注釈 8]→宮部氏→羽柴氏→三好氏→羽柴氏→豊臣氏 |
父母 |
父:三好一路(弥助) 母:瑞竜院日秀(とも) 養父:宮部継潤→三好康長→豊臣秀吉 |
兄弟 |
秀次、秀勝、秀保 義兄弟妹:三好康俊、秀勝 (石松丸)、鶴松、秀頼、秀勝(於次丸)、秀俊、豪姫、秀家、秀康、八条宮智仁親王[注釈 9] |
妻 |
正室:池田恒興の娘・若政所 継室:菊亭晴季の娘・一の台 側室:最上義光の娘・駒姫(お伊万の方) 側室:四条隆昌の娘・於妻御前 側室:淡輪隆重の娘・小督局 他の側室は下記を参照。 |
子 | 仙千代丸、百丸、十丸、土丸、露月院[注釈 10] 他の庶出は下記を参照。 |
花押 | |
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幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉[注釈 2]とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。
秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名を秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。