12世紀
西暦1101年から西暦1200年までの100年間 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。
ヨーロッパ
西ヨーロッパでは、前世紀に続き二度、第2回と第3回の十字軍の遠征が行なわれた(詳しくは以下の「西アジア」の節を参照)。また古典の文化がイスラム・ビザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられ、哲学・美術・文学などの分野でも新しい動きを見せた(12世紀ルネサンス)。またアラビア語に翻訳された古典ギリシア語著作が、シチリア島やスペインのトレドで組織立ってラテン語訳された時代でもあるため、「大翻訳時代(英語版)」とも呼ばれている。
西アジア
十字軍に対するイスラムの反撃が始まり、1144年にエデッサが陥落する。これを受け、第2回十字軍がシリアのダマスカスを攻撃したが、敗退した。1187年、アイユーブ朝のスルタン、サラーフッディーンによりエルサレム王国軍が壊滅し(ヒッティーンの戦い)、約90年ぶりにエルサレムがイスラム側によって奪還された。この事件は第3回十字軍遠征(1189年-1192年)に発展したが、イングランドとフランス、そして神聖ローマ帝国の十字軍は薄く延びる沿岸地域の奪還にとどまった(ただし、休戦協定によりキリスト教徒のエルサレム巡礼の自由は保証された)。
東アジア
中国
中国では、遼に服属していた女真が指導者完顔阿骨打により独立し金が建国された。金はその10年後には遼および北宋を滅ぼし北半を征服、新たに再興した南半を制する南宋と対峙することになる。
日本
平安時代後期から鎌倉時代最初期にあたる。 天皇家・摂関家を巻き込む政争「保元の乱」「平治の乱」により武士の政治的地位が上昇した。両乱で活躍した平清盛の打ち立てた平氏政権が栄えたが、治承・寿永の乱(源平合戦)における最終決戦「壇ノ浦の戦い」で源氏を筆頭とする勢力が勝利し平家が滅亡したことにより、源氏の頭領源頼朝による新たな武家政権である鎌倉幕府の成立に至る。
12世紀全般
1100年代
- 1101年
- 1102年
- 1103年 - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世による最古のラント平和令。
- 1105年 - 北宋の徽宗皇帝の命により花石綱が始まる。
- 1106年 - タンシュブレーの戦いで、イングランド国王ヘンリー1世が兄のノルマンディー公ロベール2世を破る。
- 1107年
- 1108年
1110年代
- 1111年
- 1112年 - 白河法皇の還暦祝いで「西本願寺本三十六人家集」が宮廷で制作される。
- 1112年頃 - パガン朝でパーリ語・モン語・ピュー語・ビルマ語の刻まれたミャゼディ碑文が建てられる。
- 1113年
- 1115年
- 1117年 - ホイサラ朝のヴィシュヌヴァルダナによりチェンナケーシェヴァ寺院(英語版)が建立される。
- 1118年
- アラゴン王アルフォンソ1世のサラゴサ占領。サラゴサはアラゴンの首都となる。
- 東ローマ皇帝ヨハネス2世コムネノスが即位。姉のアンナ・コムネナの陰謀事件。
- 1119年 - 金の太祖阿骨打の命により完顔希尹や完顔耶魯らが女真大字を作成(小字は1138年に熙宗により制定)。
1120年代
1130年代
- 1130年
- 1130年頃 - ノルウェーにあるウルネスの木造教会が建設される。
- 1131年
- コンスタンティノポリス総主教からキエフ大公ユーリー・ドルゴルーキーに「ウラジーミルの聖母」が贈られる。
- アマルフィ公国がシチリア王国に併合される。
- 和尚原の戦い(中国語版)で呉玠・呉璘兄弟率いる南宋軍が金軍に勝利。
- 1132年
- 1134年
- 1136年 - ノヴゴロド公フセヴォロドが追放される(12世紀のノヴゴロドの革命)。
- 1136年頃 - ジェフリー・オブ・モンマスが『ブリタニア列王史』を執筆。
- 1137年 - アラゴン王国とバルセロナ伯国の連合によるアラゴン連合王国の成立。
- 1138年
- コンラート3世がホーエンシュタウフェン朝の初代ドイツ王に即位。
- シリアのアレッポで死者23万人の大地震。
- ポーランド大公ボレスワフ3世クシヴォウスティが死去。
- 「ボレスワフ3世の遺言状」で年長者相続を決めるも、後継者争いが起こりポーランドの分裂時代始まる。
- 1139年
1140年代
- 1140年
- 1141年
- カトワーンの戦いで西遼の耶律大石がセルジューク朝のアフマド・サンジャルに勝利する。
- 南宋で主戦派の岳飛が和平派の秦檜の陰謀により反逆罪で処刑される。
- 1142年
- 南宋と金の紹興の和議。
- 崇徳天皇が譲位し、第76代近衛天皇が即位。
- 聖ヨハネ騎士団がクラック・デ・シュヴァリエを獲得。以後大幅な拡張工事を行う( - 1170年)。
- 1143年
- 1144年
- 1145年
- 1146年
- 1147年
- 1148年
1150年代
- 1150年
- 1152年
- アリエノール・ダキテーヌがフランス王ルイ7世と離婚し、同年アンジュー伯アンリと再婚する。
- シャンパーニュ伯アンリ1世が伯位を継ぐ。シャンパーニュの大市などの振興政策を行う。
- シリアのアパメアが地震で壊滅する。
- 1153年
- 1154年
- 1155年
- 1156年
- 1157年
- スルタンのアフマド・サンジャルの病没により、統一セルジューク朝が滅亡。
- ブランデンブルク辺境伯が設置され、アスカーニエン家のアルブレヒト熊公が封じられる。
- 1158年
- 後白河天皇が譲位し、第78代二条天皇が即位。
- 1159年
1160年代
- 1160年
- 1161年 - 金が南宋との采石磯の戦いで敗北。海陵王が廃位殺害され世宗が即位。
- 1162年頃 - セーナ朝のバッラーラ・セーナ王がパーラ朝を滅ぼしベンガルを統一。
- 1163年 - パリのノートルダム大聖堂が着工される(最終的な完成は1345年)。
- 1164年
- 1165年
- 1165年頃 - 東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスのもとに司祭王ヨハネス(プレスター・ジョン)を差出人とする書簡が届けられる。
- 1166年
- フランスのケルシー地方ロカマドゥールにて聖アマドゥールの聖遺物が発見される。
- ハインリヒ獅子公がニーダーザクセンのブラウンシュヴァイクに獅子像(英語版)を建てる。
- 1167年
- 1168年
- 1169年
1170年代
1180年代
- 1180年
- 1181年
- 1182年
- アンドロニコス・コムネノスが東ローマ帝国皇太后マリアを殺害。
- 皇太后暗殺と同時にコンスタンティノポリス在留のヴェネツィアやジェノヴァなどラテン人も虐殺する(英語版)。
- アンドロニコス・コムネノスが東ローマ帝国皇太后マリアを殺害。
- 1183年
- 1184年
- 1185年
- 1186年
- 1187年
- 1188年頃
- ミュンヘンとブラウンシュヴァイク共同所有となっている「ハインリヒ獅子公の福音書(ドイツ語版)」が完成する。
- 1189年
1190年代
- 1190年
- 1191年
- 1192年
- 後白河法皇が死去。源頼朝が征夷大将軍となる。
- 一般的にはこれを以って、鎌倉時代の始まりとされる。
- サラーフッディーンとリチャード1世の休戦協定(ヤッファ条約 (1192年))。
- 十字軍はシリアの海岸の領土とエルサレム巡礼の許可を得るだけにとどまる。
- 帰国途中のリチャード1世をオーストリア公レオポルト5世が拘束する。
- タラーインの戦いで、ゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマドがチャーハマーナ朝のプリトヴィーラージャ3世(英語版)に勝利する。
- 翌年にはデリーを占領しゴール朝の北インド支配が確定、ラージプート勢力は支配に服する。
- 金の都燕京(北京)の盧溝橋が完成する。
- 後白河法皇が死去。源頼朝が征夷大将軍となる。
- 1193年
- 1194年
- 1195年
- アラルコスの戦い(英語版)でムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールがカスティーリャ軍に勝利。
- 東ローマ皇帝イサキオス2世が廃位され、弟のアレクシオス3世が即位。
- 南宋の宰相趙汝愚が韓侂冑により罷免され失脚する。
- 1196年
- 1197年
- ムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールが哲学を禁止し哲学者イブン・ルシュドを追放。
- 1198年
- 1199年
1200年代
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- 1119年 - 1125年 - 北宋の徽宗皇帝の宣和年間、様々な事情で世間からはじき出された宋江ら好漢(英雄)108人が義侠心で結びついて梁山泊に集結。やがて官吏の不正がはびこる世情に義憤を覚え官吏を打倒し国を救うことを目指すようになる(原典は『大宋宣和遺事』だが、やがて講談や小説の『水滸伝』に発展)。
- 1120年 - 1170年 - ホワイトシップの遭難からトマス・ベケットの暗殺までのイングランドのキングズブリッジで、トム・ビルダーとその仲間たちが大聖堂を建築する(ケン・フォレット『大聖堂』)。
- 1135年 - 1154年 - イングランド王スティーブンの時代、サフォーク州のウールピットのオオカミ穴から見知らぬ少年少女が出現した。二人とも全身が緑色で、見たこともない素材でできた衣服を身にまとい、言葉は全く通じなかった(ニューバーグのウィリアム(英語版)修道士の年代記『英国事件史(Historia rerum Anglicarum)』の「グリーン・チルドレン(英語版)伝説」)。
- 1135年以降 - ヘンリー1世亡き後のイングランドを舞台に、第1回十字軍に参加した後に修道士となった経歴をもつカドフェルが東方より学んだ薬草学の知識や洞察力を駆使して難事件を解決していく(エリス・ピーターズの歴史ミステリー『修道士カドフェル』)。
- 1151年 - 1154年 - 近衛天皇の仁平年間に御所清涼殿に鵺が出現し、源頼政がこれを退治する(『平家物語』第四巻「鵺」)。
- 1154年 - 鳥羽上皇のもとへ絶世の美女玉藻前が現れ上皇に寵愛されるも、九尾の狐であることが露見し討伐されるが、那須の殺生石となってなおも人々を苦しめる(史書『神明鏡』・能『殺生石』・御伽草子『玉藻の草紙』ほか「九尾の狐」伝説)。
- 1165年 - 保元の乱で敗れ伊豆大島に流された鎮西八郎源為朝は、後に琉球に渡って大里按司の妹と結ばれ、琉球王国の始祖舜天の父となる(琉球王国の正史『中山世鑑』では事実として記載されているが真偽は不明。この伝説をもとに書かれたのが曲亭馬琴の『椿説弓張月』)。
- 1168年 - 歌人の僧西行が讃岐国に下り白峰にて崇徳上皇の怨霊に遭遇する(上田秋成『雨月物語』「白峰」)。
- 1177年 - アヴィニョンのベネゼが神の啓示を受け巨岩を持ち上げるなどの奇跡を起こしつつサン・ベネゼ橋建設に着手( - 1185年。唱歌『アヴィニョンの橋で』のもととなった伝説)。
- 1180年以前 - 平家追討以前に若き御曹子源義経は、庇護者である藤原秀衡より、北の国の都に「かねひら大王」が住み、「大日の法」と称する兵法書があることを聞かされ、旅に出る。裸の者ばかりの「裸島」、女ばかりが住む「女護の島」、背丈が扇ほどの者が住む「小さ子の島」などを経めぐった後、目的地である蝦夷が島に向かう(室町時代の御伽草子『御曹子島渡』、後に成立する「義経北行伝説」にも影響を与える)。
- 1180年 - 福原京に遷都されたこの年、いつものように平清盛がその邸宅で庭を眺めていると、折からいくつもの骸骨が出現し、さらには一つの大髑髏に合体し、清盛を睨みつけた。清盛も目を見開いて睨みつけると、大髑髏は不意に姿を消してしまった(原典は『平家物語』「物怪之沙汰」、後に鳥山石燕により「目競」という妖怪の名をつけられる)。
- 1185年 - 兄である源頼朝からの追討を避けるために、摂津国大物浦から海路で落ち延びようとした源義経とその部下たち。しかし港を出てから暴風雨に巻き込まれ、義経によって西海に滅んだ平家一門の怨霊がこぞって出現する(謡曲「船弁慶」)。
- 1189年 - 衣川の戦いで藤原泰衡に殺害された源義経であったが、義経に従っていた常陸坊海尊はその場に居合わせず死を免れた。以来、義経一行のことを語り継ぐ者として不老不死の命を得たという(林羅山『本朝神社考』では残夢と言う僧侶がその人物だと記載され、『清悦物語』などに発展する)。
- 1190年以降 - 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は死んだのではなく、テューリンゲン地方のキュフホイザー山中に眠り続けている。帝国が危機に襲われた時には再び蘇り苦境から救い出すという(グリム兄弟『ドイツ伝説集』)。
- 1193年 - saku sakuに出てくるアパート「エスポワ〜ル横浜第2」が数々の名宮大工の手によって完成。
- 12世紀末 - 第三回十字軍遠征が終わったエルサレムで、富と知恵を兼備したユダヤ商人ナータンは、イスラム教の名君サラディンによる難問「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれが真の宗教か?」に対し、真偽の識別がまったく不可能な三つの指輪のたとえ話を用いて、この問いの無意味さを説く(ゴットホルト・エフライム・レッシングの劇詩『賢者ナータン』)。