民部卿三位
鎌倉時代後期の女性。亀山上皇の側室・宮人。のち尊治親王(後醍醐天皇)の側室・後宮。重臣「後の三房」の一人吉田定房の側室・寵姫になったとする説もある。 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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民部卿三位(みんぶきょうのさんみ)は、鎌倉時代後期の女性。亀山上皇・尊治親王(のちの後醍醐天皇)の側室。重臣「後の三房」の一人吉田定房の側室・寵姫になったとする説もある。征夷大将軍護良親王(天台座主尊雲法親王)らの母。
概要 民部卿三位, 出生 ...
民部卿三位 | |
---|---|
出生 |
13世紀後半 |
死去 |
元徳元年(1329年)もしくはそれ以降 |
配偶者 | 亀山上皇 |
尊治親王(のちの後醍醐天皇) | |
吉田定房? | |
子女 | 尊珍法親王(父:亀山上皇)、護良親王(尊雲法親王とも。父:尊治親王) |
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その正体は公卿北畠師親の娘の北畠親子とするのが定説だったが、20世紀後半に否定された。21世紀初頭時点では、正体として、師親の娘の北畠資子(きたばたけ しし/すけこ)とする説と、公卿勘解由小路経光(広橋経光)の娘の勘解由小路経子(かでのこうじ けいし/つねこ)とする説がある。
民部卿三位が師親の娘であった場合、後醍醐第三皇子にして将軍である護良親王が、後醍醐側近「後の三房」の筆頭北畠親房の義理の甥となる。つまり、建武政権・南朝の最重要機関の一つである陸奥将軍府の設置を主導したのが、後醍醐ではなく護良・親房の政治的結合である可能性が高くなる。そのため、民部卿三位の正体は中世政治史の争論の的となっている。