西園寺禧子
日本の皇后、後醍醐天皇の中宮・皇后・皇太后宮 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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西園寺 禧子(さいおんじ きし/さちこ[注釈 1])は、第96代天皇・後醍醐天皇の皇后(中宮)、のち皇太后。正式な名乗りは藤原 禧子(ふじわら の きし/さちこ)。女院号は初め持明院統(後の北朝)より礼成門院(れいせいもんいん[注釈 2])と称されるが、のちにそれは廃され、崩御後同日に建武政権(後の南朝)より後京極院(ごきょうごくいん)の院号を追贈された。皇女に伊勢神宮斎宮・光厳上皇妃の懽子内親王(宣政門院)がいる。
西園寺 禧子 | |
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西園寺禧子と後醍醐天皇。『太平記絵巻』(17世紀ごろ)第2巻「中宮御嘆事」より。埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵。 | |
第96代天皇后 | |
皇后 |
元応元年8月7日(1319年9月21日) (中宮) |
皇太后 | 元弘3年7月11日(1333年8月21日) |
礼成門院 後京極院 | |
院号宣下 |
正慶元年5月20日(1332年6月13日) 元弘3年10月12日(1333年11月19日) |
誕生 |
不明(永仁3年(1295年)以降で嘉元3年(1305年)以前?) 平安京 一条烏丸東入・西園寺邸? (現:京都府京都市上京区) |
崩御 |
元弘3年10月12日(1333年11月19日) |
諱 | 禧子(きし/さちこ) |
幼称 | さいこく |
氏族 | 西園寺家(藤原氏) |
父親 | 西園寺実兼 |
母親 | 藤原孝泰女(従二位隆子、藤原孝子) |
配偶者 | 後醍醐天皇 |
結婚 | 正和2年(1313年) |
子女 | 皇女(夭折?)、懽子内親王(宣政門院) |
身位 | 女御 → 中宮 →(女院)→中宮 →皇太后 |
宮廷首脳人物 | 西園寺実衡(中宮大夫)→三条実忠(中宮大夫)、徳大寺公清(中宮権大夫) |
宮廷女房 | 二条藤子(中宮宣旨)、御匣殿(中宮御匣殿)、阿野廉子(中宮内侍) |
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確実な生年は不明だが、幼名を「さいこく」と言い、嘉元3年(1305年)ごろには異母姉で亀山院(後醍醐の祖父)の寵姫である昭訓門院瑛子に仕えていたとみられる。正和2年(1313年)秋(7月 - 9月)ごろに皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)によって密かに連れ出され、翌年正月に情事が露見して既成事実婚で皇太子妃となる。これは基本的に恋愛結婚とみられ、夫婦の熱愛ぶりは複数の資料に現れている。一方、皇太子として、尊治の求婚には政治的理由もあると考えられている。一つ目には代々関東申次(朝廷と鎌倉幕府との折衝役)を務める有力公家である西園寺家の息女との間に世継ぎをもうけることで、甥の邦良親王の系統に対し、自身の皇統存続を強固にすること。二つ目には、関東申次の権力を通じて、幕府との関係強化を図ったことなどが推測されている。『増鏡』によれば、尊治は心情的にも禧子を溺愛し、しかも年ごとに愛情を深めていったという。
尊治が後醍醐天皇として即位した翌年の元応元年8月7日(1319年9月21日)に中宮に冊立され、このころ勅撰歌人となる。皇子・皇女に恵まれない夫妻は、嘉暦元年(1326年)ごろからたびたび安産祈祷を行ったが、時には帝である後醍醐自身が禧子のため祈祷を実践した。元徳2年(1330年)には、後醍醐は腹心の僧の文観房弘真に依頼し、禧子に真言宗最高の神聖な灌頂(授位の儀式)である瑜祇灌頂を自身とお揃いで受けさせた。後醍醐の法服をまとった肖像画『絹本著色後醍醐天皇御像』は、この時の様子を描いたものである。こうして禧子は俗界と聖界の双方で同時に日本の頂点に立ったが、これほどの寵遇と地位を天皇から受けた女性は先例がない。しかし、ついに実子に恵まれず、元弘の乱(1331年 - 1333年)の時に患った病によって、建武の新政開始直後の元弘3年10月12日(1333年11月19日)に崩御した。後醍醐の嘆きは深く、臨済宗高僧の夢窓疎石を宮中に留めて供養を行わせた。
歌人としては『続千載和歌集』等4つの勅撰和歌集に計14首、准勅撰和歌集『新葉和歌集』に1首が入集し、その入集数は歴代皇后の中でも上位に数えられる。また、禧子の美貌を後醍醐はしばしば「月影」(古語で「月の光」)に喩えている。行動的・情熱的な逸話が多く、例えば、宮中の左近の桜の枝を部下に折らせる禁忌を犯して、わざと後醍醐に自分を捕らえさせた歌などが残る。夫婦仲の睦まじさは同時代から題材とされた。例えば、歴史物語『増鏡』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」の巻名は、「秋の深山」(西園寺家北山邸、のちの金閣寺)の「秋の宮」(中宮)、つまり禧子を指し、禧子を称賛する永福門院鏱子(禧子の長姉)と後醍醐の和歌から取られている。『増鏡』巻第16「久米のさら山」では、元弘の乱前半戦に敗北し意気消沈する夫に琵琶を届け、夫婦がともに得意とする和歌を贈り合う姿が描かれた[注釈 3]。『徒然草』では皇后ながら有職故実(古代の朝廷儀礼)を気にかけない自由気ままな性格が記録されている。
軍記物語『太平記』(1370年頃完成)では、後醍醐の側室阿野廉子が傾城の悪女と設定された余波を受け、自身の上臈(高級女官)であった廉子に寵を奪われ、後醍醐から嫌悪された不遇の皇后であると描かれた。夫の後醍醐もまた、禧子の安産祈祷を装って幕府調伏の祈祷を行う冷酷な人物であるとされた。しかし、これらの『太平記』の記述は複数の点で他の資料と矛盾している。特に、安産祈祷が幕府調伏の偽装だったとする『太平記』説は、2000年代初頭まで広く信じられていたが、2010年代後半時点で日本史・仏教学・日本文学の各分野の研究者から否定的見解が提出されている。