御匣殿 (西園寺公顕女)
鎌倉時代後期の高級官僚。西園寺禧子の中宮御匣殿。尊良親王の妃 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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御匣殿(みくしげどの)は、鎌倉時代後期の高級官僚。右大臣西園寺公顕の娘。叔母で後醍醐天皇中宮である西園寺禧子の腹心の一人で、女房三役の一つ中宮御匣殿(中宮らの装束の裁縫などを司る長官)を務めた。禧子崩御後の女院号が後京極院であるため、御匣殿も後世には後京極院御匣(ごきょうごくいん の みくしげ)とも呼ばれる[1]。また、後醍醐天皇第一皇子の尊良親王の妃で、男子(一説に守永親王)をもうけた。元弘の乱(1331年 - 1333年)以前に死去。
御匣殿 | |
---|---|
続柄 | 尊良親王妃 |
出生 |
不明(1300年代初頭ごろ?) |
死去 |
元弘元年/元徳3年(1331年)以前 |
埋葬 | 不明(伝・京都市左京区尊良親王墓) |
配偶者 | 尊良親王(後醍醐天皇第一皇子) |
子女 | 男子(守永親王?) |
家名 | 藤原北家閑院流西園寺家 |
父親 | 西園寺公顕 |
役職 | 中宮御匣殿(後醍醐天皇中宮西園寺禧子の最高幹部の一人) |
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歴史的な生涯は不明な点が多いが、軍記物語『太平記』(1370年ごろ完成)では、尊良親王との恋愛物語が描かれた。この伝説によれば、尊良は学問にも和歌にも秀でた高貴な美青年であったが、次期皇太子位を巡る政争に敗れて気鬱になり、詩歌や管弦で心を慰めて、引きこもりがちになった。そして、現実の女性への興味を失って、洞院左大将(一説に洞院公賢)から貰った『源氏物語』の絵の中に描かれた美女に、恋い焦がれるようになってしまった(二次元コンプレックス[注釈 1])。
ところが、尊良はあるとき絵の美人にそっくりな現実の美女を発見し、叔父で歌人の二条為冬の手引もあって、それが御匣殿であることを知った。言い寄る尊良に、はじめ御匣殿は乗り気ではなく、徳大寺左大将(一説に徳大寺公清)という婚約者が既にいたこともあって、尊良につれない態度を取った。しかし、尊良は千通もの恋文を御匣殿に送ったので、御匣殿の側でも次第に心を開くようになった。だが、ある日、政治学の講義を受けた尊良は、中国の名君の唐太宗は、既に婚約者がいる女性を無理強いして後宮に入れることは決してなかった、という逸話を聞き、自分の行為に恥じ入った。そして心が折れて、恋文を出すのを止めてしまい、1人悩み苦しむようになった。徳大寺左大将は、尊良の惨状を見るに見かねて、御匣殿との婚約を破棄し、恋路を尊良に譲った。晴れて公認の仲になった御匣殿と尊良は、たちまち仲睦まじい夫婦になった、と描かれる。
また、後半では、鎌倉幕府との戦い(元弘の乱)の中で、土佐国(高知県)に流された尊良を追って、御匣殿が波瀾万丈の旅をする冒険が描かれる。建武の新政で夫婦再会できた幸せも束の間、数年後に夫が金ヶ崎の戦いで敗死すると、御匣殿は嘆きのあまり数十日のうちに衰弱死したという。しかし、実際には御匣殿は元弘の乱前に死去しているので、この後半部分は完全な虚構である。ただ、おそらく史実でも御匣殿と尊良は円満な夫婦で、それが物語という誇張的表現で反映されたのではないか、という推測もある。尊良親王らを主祭神とする金崎宮(福井県敦賀市)は、別名を「恋の宮」と言い、『太平記』の御匣殿との恋愛物語によって、尊良は「睦び和合の神様」として祀られている。
さらに、『太平記』の恋愛譚は、室町時代から江戸時代初頭にかけて流行した幸若舞の題材の一つになり、『新曲』という作品が作られた。江戸時代前期には、『新曲』の場面を描いた絵本や扇なども存在した。