ディンウィディ・コートハウスの戦い
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ディンウィディ・コートハウスの戦い(ディンウィディ・コートハウスのたたかい、英: Battle of Dinwiddie Court House)は、南北戦争も最終盤となった1865年3月31日に、バージニア州ディンウィディ郡で起きた戦闘である。リッチモンド・ピータースバーグ方面作戦の終わりからアポマトックス方面作戦の始まる時期に当たっていた。同じ3月31日に起きたホワイトオーク道路の戦いと共に、ロバート・E・リー将軍の指揮する南軍北バージニア軍による最後の攻勢であり、ユリシーズ・グラント中将が指揮する北軍(ポトマック軍、シェナンドー軍、ジェームズ軍)の進軍を止めようとした。グラント軍は、南軍に残っていた供給線を遮断し、南軍を会戦に引き出して決戦を挑ませることができないまでも、ピーターズバーグからリッチモンドまで構築された防衛前線をさらにその極限まで延伸させるように動いていた[4]。
ディンウィディ・コートハウスの戦い Battle of Dinwiddie Court House | |||||||
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南北戦争中 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
北軍 | 南軍 | ||||||
指揮官 | |||||||
フィリップ・シェリダン |
ジョージ・ピケット フィッツヒュー・リー | ||||||
戦力 | |||||||
9,000名[1] | 10,600名[2] | ||||||
被害者数 | |||||||
354名[3] | 760名[3] |
1865年3月29日、総勢約9,000名ないし12,000名とされる北軍の大騎兵部隊が[5]、南軍前線の西端から約4マイル (6.4 km)、ファイブフォークスにあった道路の重要な交差点の南約5マイル (8 km) にあるディンウィディ・コートハウスに向かった。この部隊をフィリップ・シェリダン少将が指揮し、このときはまだシェナンドー軍と呼ばれていた。トマス・デビン准将の第1師団と、ジョージ・アームストロング・カスター准将(名誉少将)の第3師団で構成されていた。どちらも非公式の軍団長としてウェズリー・メリット准将(名誉少将)の全体指揮下に置かれていた。さらにポトマック軍からこの任務のために派遣されたジョージ・クルック少将の第2師団が付いた。ファイブフォークスはサウスサイド鉄道という南軍の重大な供給線を支配するための重要な交差点だった。3月29日午後の遅い時間にデビンとクルックの師団がディンウィディ・コートハウスに到着したのに対し、カスターの師団は他の2個師団から遅れること約7マイル (11 km) で、立ち往生した輜重隊を守っていた。
3月29日にはまた、ガバヌーア・ウォーレン少将の北軍第5軍団が南軍防衛線の最右翼であるホワイトオーク道路前線の端に移動した。その日に起きたルイス農園の戦いの結果、ウォーレンの軍団が南軍の哨戒線あるいは前進基地陣地の支配権を取り、重要な輸送と通信の経路であるボイドトン板張り道路をクエーカー道路との交差点で抑えた。ウォーレンの軍団は3月30日の1日、前線を前に出し続けたが、3月31日には南軍の急襲によって一時的に後退させられた。31日午後のホワイトオーク道路の戦いでは、部隊を再編した第5軍団がボイドトン板張り道路の陣地を取り戻し、ホワイトオーク道路を通して南軍の防衛前線と、約4マイル (6.4 km) 西のファイブフォークスにいたジョージ・ピケット少将の特任部隊と直接通信する経路を遮断した。31日が終わるとき、第5軍団はシェリダン軍の位置に最も近い歩兵軍団だった。
この3月31日の同じ時間帯に、シェリダンの騎兵隊はファイブフォークスを占領することを目指して、ディンウィディ・コートハウスから北に動いた。このとき南軍のジョージ・ピケット少将の歩兵隊と、フィッツヒュー・リー少将の騎兵隊から攻撃を受けて、防御的な姿勢を強いられた。この日の戦闘では様々な場所でシェリダン軍が押されたが、長く厳しく戦って行動を遅らせ、後退後も組織を保ちながら南軍に数百名の損失を出させた。最終的に輜重隊の護衛任務から解放されて前線に送られたアレクサンダー・C・M・ペニントン・ジュニア大佐とヘンリー・ケイプハート大佐の2個旅団を擁するカスターの師団が援軍となり、シェリダン軍は町の北でその前線を保持することができた。その町の郊外には強力な南軍部隊がいたので、シェリダン軍は夕暮れまで危険な状態にあった。しかしその夜、第5軍団チャールズ・グリフィン准将(名誉少将)の第1師団に属するジョセフ・J・バートレット准将の旅団が、さらにその数時間後にはウォーレンの軍団全軍が動いて、ピケット隊の側面に進むことでピケット隊をファイブフォークスに押し返し、翌日にはその前進した陣地の利点を生かすことができた。4月1日午前7時までに、シェリダンは歩兵1個軍団と自分の騎兵隊を共にファイブフォークスに向けて前進させた。
ホワイトオーク道路の戦いとディンウィディ・コートハウスの戦いは、当初は南軍が成功したものであり、ディンウィディ・コートハウスの場合はその日の終わりの時点で南軍の戦術的勝利と見られたが[6]、最終的に南軍は前線を進めることができず、北軍を弱らせ後退させる、あるいはシェリダン軍を支援部隊から切り離すという戦略的目標も達成しなかった。南軍はこの2つの戦闘で、ただでさえ減退していた軍隊から少なくとも1,560名の損失を出した。この3月31日の両戦闘とその後の部隊の動きにより、翌4月1日のファイブフォークスの戦い、さらに4月2日の第三次ピーターズバーグの戦い(ピーターズバーグの突破とも呼ばれる)で南軍が敗北し、防衛線が崩壊する前段階を作った。4月2日から3日の夜に行われた南軍のピーターズバーグとリッチモンド脱出と、西への行軍を北軍が密に追撃し、最後は1865年4月9日、アポマトックス・コートハウスの戦い後にリーの北バージニア軍降伏に繋がった。