ノルマンディー上陸作戦
1944年にナチス・ドイツ占領下のフランスで実行された第二次世界大戦中の作戦 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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ノルマンディー上陸作戦(ノルマンディーじょうりくさくせん、Invasion of Normandy)は、第二次世界大戦中の1944年6月6日に連合軍によって行われた、ナチス・ドイツ占領下のフランス北部への上陸作戦。また、ノルマンディー侵攻(ノルマンディーしんこう)とも言う。正式作戦名は「ネプチューン作戦」(en:Normandy landings)。なお上陸からフランスの首都パリの解放までの作戦全体の正式名称はオーヴァーロード作戦(Operation Overlord)。
ノルマンディー上陸作戦 (ネプチューン作戦) Invasion of Normandy (Operation Neptune) | |
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ロバート・F・サージェント撮影『死の顎へ』(en:Into the Jaws of Death) 1944年6月6日、LCVPからオマハ・ビーチに上陸する米第1歩兵師団第16歩兵連隊E中隊 | |
戦争:第二次世界大戦(西部戦線) | |
年月日:1944年6月6日 | |
場所:北フランス(ノルマンディー、コタンタン半島) | |
結果:連合軍の勝利 (歴史的意味および余波も参照)
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交戦勢力 | |
イギリス アメリカ合衆国 カナダ 自由フランス軍 ポーランド オーストラリア 自由ベルギー軍 ニュージーランド オランダ ノルウェー 自由チェコスロバキア軍 ギリシャ王国 |
ドイツ国 |
指導者・指揮官 | |
ドワイト・アイゼンハワー(連合軍最高司令官) アーサー・テッダー(連合軍副司令官) バーナード・モントゴメリー(陸軍総司令官) トラフォード・リー=マロリー(空軍総司令官) バートラム・ラムゼー(海軍総司令官) オマール・ブラッドレー マイルズ・デンプシー |
ゲルト・フォン・ルントシュテット エルヴィン・ロンメル フリードリヒ・ドルマン レオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク |
戦力 | |
156,000(6月6日時点) 1,332,000(7月24日まで[1]) |
380,000(7月23日まで) |
損害 | |
アメリカ軍 戦死1,465[2]~2,501[3] 他連合軍戦死1,913[4] 負傷者約6,000人[5] |
死傷者約9,000[6] 捕虜約200,000[7] |
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イギリスを進発したイギリス軍、アメリカ軍を主力とする連合国軍の兵員が、作戦初日だけで約15万人、オーヴァーロード作戦全体で200万人が英仏海峡を渡ってノルマンディー海岸とコタンタン半島東岸に上陸した。現在に至るまで歴史上最大規模の上陸作戦である[8][9][10][11]。
本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空襲と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。連合軍は、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルが「かつて行われたもののうちで最も複雑な作戦」と評したほどの苦戦も覚悟していたが、様々な要因もあってドイツ軍にとっては完全な奇襲となり[12]、上陸作戦は「オマハ・ビーチ」など一部を除いて円滑に進み、損害は想定を遥かに下回った[13]。とはいえドイツ国防軍と武装親衛隊の抵抗は激しく、連合国軍は橋頭堡を確保した後、内陸への進撃は計画より遅れた[14]。
ナチス・ドイツは、ソビエト連邦(ソ連)との東部戦線、イタリア戦線に加えて、西部戦線でも再び陸上での戦闘を余儀なくされることになり、1年足らずの1945年5月上旬には降伏に追い込まれた。
ノルマンディーの上陸作戦は第二次世界大戦中最もよく知られた戦いの一つでもある。本作戦で用いられた用語「D-デイ」は作戦決行日を表し、現在では主に作戦開始当日の1944年6月6日について使われる。