山川彌千枝
日本の女学生 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
山川 彌千枝(やまかわ やちえ、1918年〈大正7年〉1月8日 - 1933年〈昭和8年〉3月31日)は、日本の女学生。結核によって15歳で死去してのち、作文、童話、絵、日記などの遺稿が女流同人誌『火の鳥』で特集されて大きな反響を呼び、川端康成をはじめ、文壇の著名人らからも絶賛された[8][4]。
概要 やまかわ やちえ 山川 彌千枝, 生誕 ...
やまかわ やちえ 山川 彌千枝 | |
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生誕 |
1918年1月8日[1][2] 日本 東京府東京市小石川区大塚町69番地(現・東京都文京区大塚)[3] |
死没 |
(1933-03-31) 1933年3月31日(15歳没)[4][5] 日本 東京府東京市中野区桃園町41番地(現・東京都中野区中野)[3] |
死因 | 病死(結核)[4] |
墓地 | 護国寺[6] |
国籍 | 日本 |
教育 |
成城小学校卒業 明星学園女学部(在学中に死去) |
親 |
父:山川幸雄 母:山川柳子 |
家族 | 長姉・京子、長兄・幸世、次姉・百合子、次兄・駿雄、三姉・美耶子、三兄・健雄、四姉・春子、四兄・益男[7][注 1] |
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この遺稿集は、1935年(昭和10年)に単行本『薔薇は生きてる』として刊行された。以後も様々な出版社から再版され、五十数版を重ねるベストセラーともなっている[9][10]。