クロアチア王国 (925年-1102年)
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クロアチア王国(ラテン語: Regnum Croatiae、クロアチア語: Kraljevina Hrvatska, Hrvatsko Kraljevstvo)は、中央ヨーロッパに存在した国家である。王国の支配領域はイストリア半島の大部分とダルマチア地方の海岸部の一部を除くクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの一部で構成され、およそ2世紀にわたって主権国家として存続していた。
公用語 | クロアチア語 古代教会スラヴ語 ラテン語 |
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宗教 | カトリック |
首都 | 時期により変遷 ニン ビオグラード クニン シベニク ソリン |
現在 | クロアチア ボスニア・ヘルツェゴビナ モンテネグロ セルビア スロベニア |
- クロアチア王国
- Regnum Croatiae (ラテン語)
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←925年 - 1102年 →
→(ズボニミルの王冠)
トミスラヴ王の治世下におけるクロアチア王国の支配領域
濃い紫色がクロアチア王国領、薄い紫色の領域はクロアチア王の宗主下の勢力の領地である。- ^ 925年、トミスラヴは教皇ヨハネス10世から送られた手紙の中でレックス(王)と呼ばれ、同年の内に議会に於いてクロアチア王国の成立が認められたため、クロアチアの最初の王と見なされている。しかしこの頃のクロアチアの状況と彼の戴冠式の具体的な時期は不詳である。また、教皇の手紙が実際に存在したかどうかもは疑問視されてはいるが、後の碑文と憲章からトミスラヴ王の後継者が自分たちを「王」と呼んでいたという事実が確認されている[1]。
クロアチア王国は恒常的な首都を持たず、君主が変わるたびに王宮の位置も変化していた。ニン、ビオグラード、クニン、シベニク、ソリンの5つの都市が「王の都市」の称号を得ていたと伝えられている[2]。
中世クロアチア王国が存在した時代はブルガリア人、東ローマ帝国、ハンガリー人との間に起きた様々な衝突と和平、ヴェネツィア共和国とのアドリア海東海岸の支配権を巡る競争によって特徴付けられる。最初の国王であるトミスラヴはハンガリーとブルガリアの侵入を撃退するが、王権は不安定であり、彼の死後に内紛によってクロアチアは衰退する[3]。11世紀後半にクロアチア王国はビザンツ帝国の支配の崩壊を利用して大部分のダルマチアの海岸部の都市を制圧した。この時代にクロアチア王国はペタル・クレシミル4世とドミタル・ズヴォニミルの統治下で最盛期を迎える。
ズヴォニミルの死後に起きた王位を巡る十数年の抗争とグヴォズドの戦いを経て、クロアチア王位はアールパード朝ハンガリー王国に渡る。ハンガリー王カールマーンは1102年にビオグラードで「クロアチアとダルマチアの王」として戴冠され、2つの王国は1つの王冠の元に統合される[4][5][6][7]。2つの王国の関係の実像は19世紀に論争の原因となる[8][9][10]。現代のクロアチアとハンガリーの歴史学者の多くは、1102年以降のクロアチア王国とハンガリー王国の関係を共通の王を頂く同君連合として捉えている[11]。