コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)
第4回十字軍による包囲戦(東ローマ帝国が一時的に滅亡) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:
トップの事実と統計を挙げていただけますか コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)?
この記事を 10 歳向けに要約してください
他の包囲戦については「コンスタンティノープル包囲戦の一覧」をご覧ください。 |
1204年のコンスタンティノープル包囲戦(コンスタンティノープルほういせん)は、同年4月8日から13日にかけて、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを第4回十字軍が包囲し、陥落させた戦いである。征服されたコンスタンティノープルは十字軍の略奪破壊を受けた。これによりビザンツ帝国は一時的に滅亡し、西欧から来た十字軍騎士たちによるラテン帝国[4]が建国され、フランドル伯が初代皇帝ボードゥアン1世としてハギア・ソフィア大聖堂で戴冠した。
コンスタンティノープル包囲戦 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第4回十字軍中 | |||||||||
十字軍のコンスタンティノープル入城, ウジェーヌ・ドラクロワ画 | |||||||||
| |||||||||
衝突した勢力 | |||||||||
ビザンツ帝国アンゲロス朝 |
第4回十字軍 ヴェネツィア共和国 | ||||||||
指揮官 | |||||||||
アレクシオス5世ドゥーカス |
ボニファーチョ1世 エンリコ・ダンドロ | ||||||||
戦力 | |||||||||
15,000人[1] ガレー船20隻[2]:159 |
十字軍 12,000人 ガレー船60隻 輸送船150隻[2]:106 | ||||||||
被害者数 | |||||||||
不明 | 不明 | ||||||||
ギリシア人住民 2000人以上死亡[3] |
この包囲戦の後、ビザンツ帝国の旧領は十字軍諸侯の国家やビザンツ貴族による亡命政権によって分割された。後の1261年、こうした亡命政権の一つニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪回してラテン帝国を滅ぼし、ビザンツ帝国を復活させた(パレオロゴス朝)。しかしこれ以降帝国の勢力は領土的にも経済的にも衰退を続け、最終的に1453年の包囲戦でオスマン帝国に滅ぼされた。
1204年のコンスタンティノープル陥落は、ヨーロッパ中世史における一大転機であった。カトリックと正教の差異こそあれ、コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であり、これを十字軍が攻略するという事態は前例がなく、議論を巻き起こした。また征服後の十字軍が行った野蛮な略奪や虐殺行為は東ヨーロッパ諸国を憤慨させ、カトリックと正教の両教会の関係は破滅的なまでに冷え込み、現代にまで至る教会分裂を固定化する結果となった。
長期的に見れば、十字軍のコンスタンティノープル攻略はビザンツ帝国の衰退と完全な滅亡をも早め、結果的にイスラーム勢力であるオスマン帝国がヨーロッパへ勢力を拡大する手助けをしたことになる。