ソ連対日参戦
1945年8月9日未明より開始されたソ連軍と日本軍との戦闘 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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ソ連対日参戦(ソれんたいにちさんせん)は、太平洋戦争の末期から終戦後にかけて日本本土や満洲国、朝鮮半島、樺太、千島列島などで、日ソ中立条約を一方的に破棄して大日本帝国に宣戦布告をし侵攻してきたソビエト連邦の赤軍とそれぞれの地域を守備する日本軍の守備隊との間で勃発した一連の戦闘である。
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この項目では、ソ連軍と日本軍でおこなわれた戦闘について説明しています。ソ連から日本に対する宣戦布告については「ソ連対日宣戦布告」をご覧ください。 |
概要 ソ連対日参戦, 交戦勢力 ...
ソ連対日参戦 | |
---|---|
樺太の真岡町(ホルムスク)に進駐するソ連軍、避難する日本人居留民も見える | |
戦争:太平洋戦争[1] | |
年月日:1945年8月8日 - 同年9月2日[1] | |
場所:満洲、朝鮮半島北部、千島列島、樺太等[1]。 | |
結果:ソ連側の勝利、日本の降伏。ソ連軍は満洲国や朝鮮北部を制圧し、また南樺太や千島列島も占領した[1]。 | |
交戦勢力 | |
ソビエト連邦 モンゴル 陝甘寧辺区 |
大日本帝国 満洲国 蒙古聯合自治政府 |
指導者・指揮官 | |
ヨシフ・スターリン アレクサンドル・ヴァシレフスキー キリル・メレツコフ アファナシー・ベロボロドフ ニコライ・クルイロフ イワン・チスチャコフ マクシム・プルカエフ ニコライ・クズネツォフ レオンチー・チェレミソフ アレクセイ・グネチコ ロディオン・マリノフスキー アレクサンドル・ルチンスキー アンドレイ・クラフチェンコ イッサ・プリーエフ イワン・ユマシェフ ホルローギーン・チョイバルサン ジャミヤンギーン・ルハグヴァスレン 毛沢東 朱徳 彭徳懐 |
鈴木貫太郎 山田乙三 喜多誠一 池谷半二郎 清水規矩 後宮淳 飯田祥二郎 本郷義夫 上村幹男 櫛淵鍹一 根本博 樋口季一郎 峯木十一郎 堤不夾貴 愛新覚羅溥儀 張景恵 デムチュクドンロブ 李守信 |
戦力 | |
兵員 1,577,725[2] 火砲・迫撃砲 26,137[2] 戦車・自走砲 5,556[2] 航空機 3,446[2] |
兵員 満州 700,000[3] 千島・樺太 96,000[4] 火砲 1,000[3] 戦車 150[3] 航空機 150[3] |
損害 | |
戦死 22,694人[5] 戦傷 40,377人[5] ソ連側主張 8,200人戦死[1] |
戦死 33,900人(満州・千島・樺太合計)[4] 戦傷 不明 シベリア抑留 570,000人以上[6] 内70,000人死亡[6] 民間人犠牲 130,000人(戦後に死亡や行方不明になった者も含む)[7] ソ連側主張 80,000人戦死[1] |
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昭和20年(1945年)8月8日夜に、ソ連のモロトフ外務人民委員が、佐藤尚武駐ソ連大使を招致し、そこで佐藤大使にソビエト政府の対日参戦を宣告する。そして、翌日の8月9日未明にソ連軍が満ソ国境を越えて攻撃を開始した[8]。
最終的には日本の降伏を招いたが、終戦後もソ連赤軍は侵攻を続け、現在の北方領土を占領した。また、その過程でソ連軍による日本の捕虜や民間人に対する苛烈な強姦や虐殺が行われ、現在でも日露両国間で禍根を残している。
ソ連は満洲・樺太・千島侵攻のために総兵力157万人、戦車・自走砲5,556輌、航空機3,446機を準備し[2]、8日夜に宣戦布告、9日未明に満洲への侵攻作戦を、11日に樺太への侵攻作戦を開始し、第二次世界大戦における日本の降伏を決定付けた[9]。
日本の防衛省防衛研究所戦史部では、この一連の戦闘を対ソ防衛戦(たいソぼうえいせん)と呼称した。日ソ戦争(にちソせんそう)[10][11][12]とも呼称された。一方、ソ連(ロシア)側では《Советско-японская_война》(ソ日戦争)と呼称している。
この戦闘により、ソ連軍および中国兵による陸軍兵及び満洲・中国居留民への虐殺事件やシベリア抑留・中国残留日本人の問題が発生した。