フランシス・ニコルソン
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フランシス・ニコルソン(英: Francis Nicholson、1655年11月12日 - 1727年3月5日/1728年3月16日[1])は、イギリス軍の軍人であり、植民地の管理者である。その軍歴にはアフリカやヨーロッパでの任務があり、その後ニューイングランド自治領で総督エドマンド・アンドロス卿を支援するための軍隊指揮官として派遣された。そこで頭角を現し、1688年には自治領の副総督に指名された。1689年、名誉革命の報せが植民地に届くと、アンドロスはボストン暴動でその支配者の地位を追われた。ニコルソン自身も間もなくニューヨーク植民地での暴動中に捕まり、イングランドに逃げ帰った。
フランシス・ニコルソン Francis Nicholson | |
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メリーランド植民地総督 | |
任期 1694年 – 1698年 | |
バージニア植民地総督 | |
任期 1698年 – 1705年 | |
ノバスコシア植民地総督 | |
任期 1712年 – 1715年 | |
君主 | アン女王 ジョージ1世 |
サウスカロライナ植民地総督 | |
任期 1721年 – 1725年 | |
個人情報 | |
生誕 | 1655年11月12日 イングランド、ヨークシャー、ダウンホーム |
死没 | 1727年/28年3月16日 ロンドン |
宗教 | 聖公会 |
署名 | |
兵役経験 | |
所属国 | グレートブリテン王国 |
最終階級 | 中将 |
戦闘 | モンマスの反乱 アン女王戦争 |
その後はメリーランド植民地総督とバージニア植民地総督を務めた。ウィリアム・アンド・メアリー大学の設立を支持し、アンドロスがニコルソンを越えてバージニア植民地総督に選ばれた後で、アンドロスと喧嘩した。1709年、アン女王戦争中の植民地における軍事行動に巻き込まれるようになり、カナダに対する遠征を率いたが失敗した。その後、アカディアのポートロワイヤルに対する包囲を行い、1710年10月2日に陥落させた(ポートロワイヤルの戦い (1710年))。その後は、ノバスコシアとプラセンティアの総督となり、サウスカロライナ植民地でその領主に対する反乱が起きた後では、そこの初代王命総督になった。ニコルソンは中将の位に昇り、1728年にロンドンで独身のまま死んだ。
ニコルソンは植民地における公共教育を支持し、イギリス海外福音伝道会や王立協会の会員だった。アメリカの建築にも影響を与え、メリーランド州アナポリスやバージニア州ウィリアムズバーグの町の区画割りや設計を行った。植民地の統合を早くから提唱した者であり、主に共通の敵からの防衛がその理由だった。