三十年戦争
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三十年戦争(さんじゅうねんせんそう、独: Dreißigjähriger Krieg, 英: Thirty Years' War)は、主にドイツ(神聖ローマ帝国)を舞台として1618年から1648年にかけて戦われた宗教的・政治的諸戦争の総称[1]である。
三十年戦争 | |
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白山の戦い | |
戦争:三十年戦争 | |
年月日:1618年–1648年 | |
場所:ヨーロッパ(主に、現在のドイツ) | |
結果:新教徒勢力の勝利、ヴェストファーレン体制の成立 | |
交戦勢力 | |
新教徒勢力
スウェーデン・バルト帝国 (1630–) |
ローマ・カトリック勢力 |
指導者・指揮官 | |
グスタフ2世アドルフ † アクセル・オクセンシェルナ ヨハン・バネール(英語版) |
フェリペ4世 ガスパール・デ・グスマン |
戦力 | |
661,000人 :
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450,000 人:
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損害 | |
ドイツの人口の20 %を含む約800万人以上の死者[6][7] | |
ドイツにおけるプロテスタントとカトリックとの対立、オーストリア,スペインのハプスブルク家とフランスのブルボン家との抗争を背景とし,オーストリア領ボヘミアの新教徒が神聖ローマ帝国に対して反乱(プラハ窓外放出事件)を起こしたことに端を発した[1]。当初は皇帝=カトリック軍が優勢であったが、プロテスタント国のデンマーク、スウェーデンが参戦し、旧教国フランスが新教国スウェーデンを支持するに至り、もはや宗教戦争とは言えなくなり[1]国際的戦争となった[8]。
戦争の結果、オランダとスイスが独立し、ドイツ諸侯も独立性も強化され、神聖ローマ皇帝は名目的存在となり、ハプスブルク家は大打撃を受けた[8]。アルザス地方を獲得したフランスは大陸最強国となり、北ドイツの諸要地を獲得したスウェーデンも強国となった[1]。
この戦争はフランスブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いであった[9]。また政治的優位性をめぐるフランスとハプスブルク家の対立だけでなく、ハプスブルク家がドイツで帝国の権威を再構築しようとしたことの延長線上にあったとも解説される[10]。
「最後で最大の宗教戦争」ともいわれ[8]、ドイツの人口の20 %を含む800万人以上の死者を出し、人類史上最も破壊的な紛争の一つとなった[6]。
後述するように30年間常に戦争していたわけではなく、休戦や和平によって中断されたためいくつかの段階に分かれている。そのため三十年騒乱とも言うべきものである。