内藤如安
戦国時代から江戸時代前期の武将。藤原北家秀郷流内藤氏。備前守、従五位下、飛騨守。茶人。キリシタン追放令によりマニラへ追放された。 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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内藤 如安(ないとう じょあん) / 内藤 忠俊(ないとう ただとし)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。
概要 凡例内藤 如安 / 内藤 忠俊, 時代 ...
聖ヴィンセント・デ・ポール・パリシュ教会の記念碑(マニラ) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天文19年(1550年)頃 |
死没 | 寛永3年(1626年) |
改名 | 貞弘→忠俊 |
別名 |
汝安[1]、如庵、寿庵[2] 通称:五郎[3] 号:徳庵[2] |
霊名 | ジョアン |
官位 | 備前守、飛騨守 |
主君 | 足利義昭→小西行長→前田利長 |
氏族 | 内藤氏(藤原北家秀郷流) |
父母 | 父:松永長頼、母:内藤国貞の娘 |
兄弟 | 貞勝[注釈 1]、玄蕃、如安、某、ジュリア |
子 | 休甫、勝定 |
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如安はキリスト教の洗礼名ジョアンの音訳名で、諱は貞弘(さだひろ)、忠俊(ただとし)。小西飛騨守とも称す。熱心なキリシタンとして知られ、また茶人としても名高い。丹波国の在地領主としてはじまり、小西行長に仕えた後浪人し、最後はキリシタン追放令によりマニラへ追放された[4]。