巫蠱の禍
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巫蠱の禍(ふこのか)は、前漢の征和2年(紀元前91年)、武帝の治世末期に起きた事件である。巫蠱と呼ばれる呪術を巡って前漢の都長安が混乱に陥り、ついに皇太子の劉拠が挙兵するに至った。巫蠱の獄(ふこのごく)、巫蠱の乱(ふこのらん)とも言う。
徐衛民と劉江偉によれば、巫蠱の禍は前漢中期に増大していた社会矛盾の噴出であり、武帝時代の政治に重大な影響を及ぼしたという[1]。なお、呂思勉(中国語版)は事件の記述に胡巫(胡の巫)が現れることを根拠として、巫蠱は中国に元来あったものではなく匈奴などの外国からもたらされたのではないかとする[2]。匈奴には敵軍の通り道に牛や羊を埋めて呪詛する習慣があったといい、この事件で行われた偶人(木製の人形)を地中に埋めるという手法がそれと関係する可能性はある[3]。