承久の乱
1221年に日本の各所で発生した内乱 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:
トップの事実と統計を挙げていただけますか 承久の乱?
この記事を 10 歳向けに要約してください
すべての質問を表示
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時に対して起こした、貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立抗争[2]。鎌倉時代初期の幕府と貴族政権や治天の間に存在した緊張・融和などの諸関係がもたらす政治史の、一つの帰結であったとされる[2]。争いの呼称は承久の変、または承久合戦ともいう[3]。
概要 承久の乱(承久の変), 交戦勢力 ...
承久の乱(承久の変) | |
---|---|
「瀬田の唐橋」朝廷にとって宇治川とともに瀬田川は鎌倉幕府軍に対する防衛の要衝で、現在の滋賀県大津市の瀬田一帯も戦場となった[1]。 | |
戦争:承久の乱 | |
年月日:(旧暦)承久3年6月 (ユリウス暦)1221年6月 (802年前) (1221-06) | |
場所:平安京周辺、北陸道、東山道、東海道 | |
結果:鎌倉幕府の勝利 | |
交戦勢力 | |
鎌倉幕府 | 朝廷 |
指導者・指揮官 | |
北条義時 北条泰時 北条時房 北条朝時 武田信光 三浦義村 |
後鳥羽上皇 順徳上皇 藤原秀康 三浦胤義 大内惟信 山田重忠 |
戦力 | |
約190,000(吾妻鏡) | 約19,000(諸説あり) |
閉じる
日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いである[4]。鎌倉幕府において、初代将軍の源頼朝から3代実朝までの3人は清和天皇の血を引く源氏将軍であり、朝廷にとって身内ともいえる[5]。しかし、2代将軍頼家に続き3代将軍実朝も暗殺されて鎌倉から源氏将軍が途絶えると、鎌倉幕府は朝廷から形だけの4代将軍を迎え入れ、実際は将軍の補佐役である執権の北条義時が幕府の実権を握るようになった。これにより後鳥羽上皇との関係は悪化していき、2年後、上皇は義時追討の院宣を発布し挙兵したが幕府軍に敗北し隠岐に配流された[6]。以後、鎌倉幕府は、朝廷の権力を制限し、京都に朝廷を監視する六波羅探題を置き、皇位継承等にも影響力を持つようになった。
なお、承久の乱の150年程前の11世紀後半、鎌倉に源氏の守り神の神社として創建され、それ以来、鎌倉武士の守護神となった鶴岡八幡宮には摂末社の今宮があり、承久の乱で敗者となった後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇の3人が祀られている[7]。