観音寺城の戦い
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観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)は、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城が主戦場だったため、箕作城の戦いともいわれている。
概要 観音寺城の戦い, 交戦勢力 ...
観音寺城の戦い | |
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観音寺城の平井丸虎口 | |
戦争:攻城戦 | |
年月日:永禄11年(1568年)9月12日 | |
場所:観音寺城、箕作城、和田山城一帯 | |
結果:織田軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田軍 徳川軍 浅井軍 |
六角軍 |
指導者・指揮官 | |
織田信長 浅井長政 神戸具盛 松平信一 |
六角義賢 |
戦力 | |
50,000 - 60,000 | 11,000以上 |
損害 | |
不明 | 1,500前後 |
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信長の天下布武が実践された最初の戦いであり、直後の京都・畿内平定に影響を与え、事実上の天下人として名乗りを上げる契機となった。この上洛以降を安土桃山時代と区分するならば、観音寺城の戦いは戦国時代最後の合戦といえる。一夜で箕作城が落城すると、観音寺城は無血開城し、六角氏は甲賀郡に逃走した。