クロアチア=スラヴォニア王国
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クロアチア=スラヴォニア王国(クロアチア=スラヴォニアおうこく、クロアチア語: Kraljevina Hrvatska i Slavonija; ハンガリー語: Horvát-Szlavón Királyság; オーストリアドイツ語:Königreich Kroatien und Slawonien)は、名目上の自治王国であり、オーストリア=ハンガリー帝国内で憲法上定義された別個の政治国家であった[9][10]。首都はザグレブ。
公用語 | クロアチア語[1][2][3][4][5] | ||||||||||||||||||||
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宗教 | カトリック | ||||||||||||||||||||
首都 | ザグレブ | ||||||||||||||||||||
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通貨 | グルデン(1868年 - 1892年) クローネ(1892年 - 1918年) |
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現在 | クロアチア セルビア モンテネグロ |
- クロアチア=スラヴォニア王国
- Kraljevina Hrvatska i Slavonija (クロアチア語)
Háromegy Királyság Horvátország és Szlavónia (ハンガリー語)
Dreieiniges Königreich Kroatien und Slawonien (ドイツ語) -
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←1868年 - 1918年 → (国旗) (国章) - 国歌: Gott erhalte Franz den Kaiser(ドイツ語)
神よ、皇帝フランツを守り給え
オーストリア=ハンガリー帝国におけるクロアチア=スラヴォニア王国(17)
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1868年にクロアチア王国とスラヴォニア王国を統合する形で誕生し、ハンガリー王冠領に属していた。クロアチア=スラヴォニア王国は「国の特徴」を備えた幅広い内部自治権を与えられていたが、税や軍事などの重要な項目はハンガリー王国が実権を有していた[11][12]。国内ではクロアチア=スラヴォニア及びダルマチア三位一体王国[13][14]、または単に三位一体王国とも呼ばれ、オーストリア帝冠領に属していたダルマチア王国の領有を主張していた[15]。Rijeka Addendum(クロアチア語版)として知られる1868年の和解で紛糾したリエカ市はコルプス・セパラトゥム(英語版)とされ、法的にはハンガリーが領有していたものの、クロアチア=スラヴォニアとハンガリーが共同で管理していた。
クロアチア=スラヴォニア王国は、クロアチア、スラヴォニア、ダルマチア王位を有し、継承に際してサボルがこれを承認したオーストリア皇帝によって支配された[16]。皇帝はクロアチアとスラヴォニアのバンを任命し、バンがサボルを主宰していた。1918年10月21日、カール1世(クロアチア王としてはカール4世)は帝国三分令を発布した。これは翌日ハンガリー側で承認され、全クロアチア王冠領は統一された[17]。1週間後の1918年10月29日にはサボルがスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の独立を宣言し、クロアチア=スラヴォニア王国は消滅した。